捨ててこそ。付喪神(つくもがみ)はミニマリストの神様なのかもしれない。


8月の終わりごろに島根に引っ越してきて、もう2018年も終わろうとしているのに、まだ片付けをやっている。むしろ来年いっぱい片付けは続くのではないかと思うくらいである。

最近は冬仕度に忙しかったし、現在は家の解体を本格的にはじめたので、気が向いたときに片付けする程度である。あと何度ゴミセンターに持ち込むことになるだろうか。解体する以上ゴミはさらに出続けることだし。

さて、解体作業は時にどこから攻めるべきかと頭を使うこともあるが、基本的には単調作業である。出来るだけ外した材は再利用したいから、乱暴にドカーンというわけにはいかない。

だから黙々と作業している間は、色々と思索に耽っているのだが、突然、付喪神(九十九神、ツクモガミ)の事を思い出した。

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物は長く使うと妖怪になる?

付喪神の存在を知ったのは聖闘士お兄さんに出てきたからだったような気がする。『付喪神絵巻』に以下のようにある。

「陰陽雑記云、器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す、これを付喪神と号すといへり」

付喪神絵巻

物は100年経つと化けて妖怪になって人を狂わすのだとい。だから立春前、旧暦で言う所の大晦日に年季の入った道具は煤払いとして廃棄するのだという話。(wikipedia参照

100年というのは厳密な時間というよりその長いことを意味するのであろうが、大事に使っていたものが妖怪になるという話はどのように読み解けば良いだろうか。

物が使い捨て同然に扱うより、ボロボロになっても直し直し大事に使うほうが美徳のようにも思えるし、昨今は物の所有と環境への負荷が当たり前に叫ばれる時代である。いちいち使えるものを捨てる必要はないだろう。

もしやもすると、為政者的には物は定期的に捨ててくれた方が、新たな消費を促進できるという思惑や、庶民が富を蓄えて力をつけないようにするための役割として、この付喪神のストーリーを作ったなんてことも考えられる。

が、ここは何かの大きなもののせいにするより、自分ごととして考えて見たい。

執着という呪い

僕にとって年季の入った道具が妖怪になるとは、大事にするほどにその物への執着が強まることへの戒めではないかと思う。大事ゆえに囚われる。物の所有者が呪われると言ったほうがわかりやすいだろうか。そしてその呪いとは欲である。

大事なものを失いたくないという欲。もしかしたら思い出の品かもしれないし、もっといえば生まれ育った家かもしれない。貰い物だからなんとなく捨てにくいなんてのもある。

しかし形あるものは全て壊れる定めにある。だからそんな大事なものもいつか必ず失ってしまう。物より先に所有者が死んでしまうこともある。しかし死んだら大事な物ともオサラバだ。だから最後は結局全部失う定めにある。そんなものの為に囚われていたら苦しいばっかりである。

それだったら物はいつか妖怪になるくらいに思っていた方がいい。いつあ僕らは呪われるのだと。いや物を持った瞬間から徐々に呪われていくのだと。欲という呪いに。だったら大事なお椀が割れても、それが妖怪になって呪われるよりマシじゃないか。ああ、割れた。それで終わり。

道具を持つことより、欲を持たないことを選ぶ。もしかすると付喪神はミニマリストの神様なのかもしれない。

物は定期的に壊すべき?

ちょっと話を拡大させてみよう。もしかすると煤払いとしての古道具の破壊というストーリーは、物は定期的に破壊、すなわち新陳代謝を促すべきであるとの示唆ともとれるのではないだろうか。

人間だったら新陳代謝が出来ずに細胞を入れ替えることができないということはそれは死を意味する。僕たちは固定された私というものは存在せず、昨日の私はおろかさっきの私すらもういない。誰かと交わると私も変わる。そうやって僕たちは生を営んでいる。

物だって同様だ。徐々に劣化しては、いつか壊れる。しかし、時に僕たちはある種の物にたいして永遠性を要求することがないだろうか。

たとえば家がそうだが、そうでなければ35年ローンの家を買って、人生かけてその返済のために働こうなんて思えるはずがない。その35年の間に幾度もの維持費補修費をはらい、返済が完了した頃には大規模修繕を迫られるかもしれないというのに。巡り合わせによっては天災によって瞬時に崩れ去ることもあり得る。

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それを可能にしているのは家にたいする一定の恒久性を信じているからだろう。むしろハウスメーカーの営業に信じされられているか、はたまたマイホームの夢に惑わされているといった方が正確かもしれないが。

家の解体をしているとよくわかるのだが、普通に暮らしていたら絶対に手が届かない隙間という隙間にホコリは入り込むし、見えないところにカビや腐りが発生しているものである。

我が家のケースでいえば、壁をぶち破ってみると家の裏に生えているイチョウの銀杏の食べカスが大量に出てくる。小動物はちょっとした隙間から入れるものだ。

これらを改善するためには家の一部を壊さないといけないわけで、放って置いたら少しづつ取り返しがつかない状態に陥る可能性だってある。壊すことが家を救うことになる。時計やカメラなどのオーバーホールも似たようなものか。

捨てて本当に大事なものを知る

我が家は母屋と納屋があって、その二つを離れが繋ぐような形になっている。いってみると3つの建物が繋がっているように増築されているのだが、どれも雨漏りをする。離れと納屋は特にひどい。

ここで、離れと納屋の屋根工事に時間を割いてしまうと、もっとも重要な母屋の修繕を怠ることになるだろうという考えから、春の母屋の屋根工事に備えて、現在その離れの解体に入り、納屋は縮小するつもりである。それもこれも母屋を守ることが一番大事だからだし、納屋が小さくなれば手入れも容易になり、メンテナンスが行き届くからだ。

これは何かを手放すことが、物を大事にすることに繋がることの好例だろう。物というのは持っているだけで場所も必要だし、気にかけないといけないし、時間も食う。そのために最も大事なものを失ってしまうかもしれない。

物に溢れた生活は、本当に必要な物にかけるべき力を分散させてしまうことになるのだ。一番大事な自分と周囲の人に費やすべき時間も含めて。

だから物は限りなく手放すに限ると僕は思っている。そのために最も大事なのは簡単に新たな物を持たないことにあるだろう。物欲に溺れて買うだけ買って、ほとんど使わずに捨てるような社会は考え直す必要がある。物だけでなく物欲をも手放すのだ。買うという行為も捨てるのだ。

むしろ買っても買っても満たされないから買うのではないか。転じて物を捨て始めた時、物に溢れる生活への疑問に気づく。買わなくなる。そして大事なものが浮き彫りになる。もうあなたは大事なのものを持ってますよと。

仏教では一切は苦しみであると説く。スリランカ上座部仏教のスマナサーラ長老の例えがわかりやすいのだが、立ち続けていたら苦しくて座りたくなるし、それでずっと座っていたら苦しくなって立ちたくなる。どんな大好物でも食べ過ぎれば苦しい。世の中の全ての行為は苦しみで説明ができてしまう。

それは余計なものを抱えれば抱えるほど、苦しみも多く抱えるということである。ならば手放せば手放すほど楽になることになる。

物から解放されて身軽になろう

そして物を手放すと、僕たちはその物たちによってその土地にアンカリングされていたことにも気づく。僕たちが支配している側だと思い込んでいる一生涯住む家と、そこに積み上げられる財は、僕たちの人生を逆に支配しだすのだ。するとその物たちを養う人生となる。なるほど自由なんて存在し得ない。

このようなライフスタイルは現在のように気候が大きく変動しようとしていて、災害の規模が大きくなっている現在、あまりにも脆弱なもののように感じる。もっと言えば日本経済だって今後の先行きが怪しい。こんな時代だからこそ、思い立ったらいつでも変化できる柔軟性が必要であろう。

こんなことを考えていると、家を直すなんていう行為と矛盾しているようにも感じる。時代はホテル住まいの地面に根を張らない浮遊感なのかもしれないというのに。

だから僕は持ち家住まいではあってもホテル暮らし感を忘れないようにしたいと常々思っている。テント暮らしや車中泊の延長としての家住まい。家が突如ぶっ壊れても次にすぐに移れる生活。思考。シンプルに、身軽に、ミニマルに。と、我が家の傾いた柱を見て思い出す。いつか壊れると忘れずにいられる傾き。

もっと言えばどーんと家が壊れた時に、余計な気苦労のない家がいい。そのまま土に還っていくような。だから天然素材以外は限りなく使いたくない。家が壊れた後まで心配したくないし、それに無頓着でいたくない。

なるほど、物は物でも呪いの程度が違うのだ。現代の製品は便利かもしれないが、捨てるのに余計な手間のかかるものが多い。ものの100年前ならその辺に打ち捨てておけば土に還っていく物ばかりだったろうに。便利の欲は人を何重ににも呪いをかける。

だから捨てる、減らす、解き放つ、シンプリファイ、ミニマライズ

私に呪われるな、捨てろ捨てろ求めるなと、物の影から付喪神が語りかける。やっぱりミニマリストの神様なんだなと思う。

Minimalize it!

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