田舎と野焼きと化学物質過敏症と

もう5年以上も前のことになるだろうか。僕が四国でお遍路をしていたときのことである。

お遍路について軽く説明すると、弘法大師空海に所縁のある88の寺を巡って四国を一周するものである。四国八十八箇所ともいう。それを徒歩で行えば歩き遍路、野宿やお堂に宿泊すれば野宿遍路などと呼ばれる。その総距離は1200km近くになる。

僕は歩き遍路だったし、野宿(テント泊)遍路だったし、自炊遍路だった。しかも馬鹿みたいにサンダルで歩いた(過去記事参照)。

1000km以上を歩く四国遍路を耐えた超丈夫なサンダル「KEENのヨギ(YOGI)」

野宿となると毎日風呂には入れない(まあ、そもそも毎日風呂に入ることを良しともしていないのだけれど)。道中にそんなにタイミングよく風呂があるわけではない。基本的に野営地は水の確保できるところを選んでいたので、体を拭くだけは最低限していた。その年は高知の四万十が最高気温の日本記録を打ち立てるほどに暑かったから汗はよくかいた。着ている服(白装束)もそこで一緒に洗う。石鹸や洗剤は使わない。

行程も半分くらいとなったところ、五十二番の太山寺を早朝に訪れたときのこと。御朱印を書いてくれる社務所が開くのは8時(だったっけ?)なのだが(遍路は歴史あるスタンプラリー的要素がある!)、寺の境内でゆっくり朝食でもと思い、5時台には到着していた。

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本堂へ向かうアプローチを歩いていると、犬が寄ってきた。そしてクンクンしてくる。

ああ、そうか。僕は体を拭いているだけだし、服も簡単な手洗い。バックパックに至っては汗を大量に吸い込んでいるのに洗えない。きっと臭うのだろう。

そう思ったので、自虐と冗談の入り混じった口調で、「野宿だから臭いんですねー」とその犬の飼い主さんに笑いながら答えた。僕は当時長髪のヒゲで、ボロボロの白装束(一張羅を毎日手洗いするとズタズタになる)を着てたけども、好青年風な挨拶を道ゆく人に振りまいていたのだった。その飼い主さんからはきっと「そんなことないですよー」的なフォローの言葉をいただくものと予想していた。

しかし結果は違った。

「なんであなたと会話できるのですか?」と驚いた様子である。

僕も意味がわからない。すると続けて言った。

「私は重度の化学物質過敏症なので普通の人と面と向かって会話ができるのは珍しいんです」

なるほど。僕が洗剤を使わずに体と服を洗っていることを説明すると、彼女(飼い主)は納得してくれた。本当に久しぶりに人と話をしたらしかった。ボディソープで体を洗い、シャンプーで洗髪し、洗顔、化粧、整髪料、デオドラントと畳み掛け、服は合成洗剤に、香害とも言われるようになった香り付き柔軟剤を使えば、彼女にとってはまさに生物兵器なのである。

通常、人にはあまり近寄れないから、早朝の人が少ない時間に犬と散歩するのが習わしで、一日の残りは家にこもっているらしい。

「都会と違って田舎町だとまだ住みよいのでしょうか」と聞いてみるとあながちそうでもないらしい。むしろ化学物質過敏症の人にとっては都会の方がマシな可能性もあるとのことだ。

「田舎では庭先や畑で野焼きをしたりしますからね」とのことだった。

なるほど、確かにそうだ。田舎は廃棄物が環境に与えうる負荷に対しては驚くほどに無頓着だったりする。それに農薬もある。田んぼなどの農薬散布のタイミングは一帯が薬の匂いで充満するものである。僕も子供の頃から鼻炎持ちだったからよくわかる。鼻が化学物質や農薬に反応するのだ。僕にとっての「臭い」とは「鼻がムズムズする刺激」だったりする。

トイレの匂いではそうはならないが、柔軟剤では下手すると鼻水が止まらなくなる。山の中で五感が敏感になった状態で登山道で綺麗な女の人とすれ違った時に、柔軟剤だか香水だかの匂いで一瞬の吐き気をもよおしたこともある。美人なのに臭い。なんとしたことか。しかし僕は別に人と会話ができないほどではない。

しかし、この犬連れの女性は違った。人と会話できないレベルだ。「何度も死のうかと思っているんです」と突然打ち明けられた。それほどに追い込まれていた。

「あなたみたいな人はどんなところにいるのですか?」と聞くので、最近、特に原発事故以降は都市から農山村に移住して自然に即した暮らしをしている人が増えていることを伝えた。

すがるように連絡先を聞かれたのでメールアドレスを伝え、別れた。

正直言って少し怖くなった。あまりにも突然に今にも自死しそうな人に出会った。しかも、彼女は僕に一抹の希望を持っていた。彼女の命の責任が僕にのしかかって来るような気がした。その日は思考の整理もできず、未消化のまま歩き続けたのを覚えている。その寺にあった種田山頭火の句碑にある「もりもりもりあかる 雲へあゆむ」を頭に浮かべながら。

僕はその時携帯を所有していなかったので、メールボックスを確認したのはそれから一月は経ってからだった。そこには彼女からの連絡はなかった。今彼女がどうしているのか僕にはさっぱりわからない。もっと何か出来たのではないかと思いもするが、過ぎたことはどうしようもない。

でも当時は色々考えたらしいことがその日の日記をみるとわかる。それはこんな俳句を書いていたからだった。

過ぎたこと これからのこと 考える 眠れない夜

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田舎と野焼き

このストーリーを思い出すきっかけとなったのは我が家を尋ねてきたお巡りさんに、「ゴミは燃やしちゃいかんよ」と言われたからであった。

いやいや、僕はそんなことはしません。確かに、家の周りに捨てないといけないものが山積みだし、そこそこ人里離れているから、いかにも燃やしそうに見えるのだが、焼いて体にも環境にも悪い影響を与えるようなものは燃やしたくない。燃やして問題ないものだったら燃やすけどね。でもそんなものは残念ながらこの世の中にはほどんどなくなってしまった。

かつては木製の家具や、ベニヤなどの集成材を燃やしたりもしたが、接着剤や木材に含まれる薬剤の匂いが堪らないので、もうやらないと決めている。無垢材は形が狂うから流通するほとんどの木工製品からは姿を消している。天然木でも塗装はウレタンだったりする。

無垢材なんかでも結局はほとんどが防腐剤などに漬けているとも言われている。輸入木材は長い船旅に耐えうるために、防カビ防虫は欠かせないとも。それに古民家の場合は現在規制が入っている薬剤を使った建材が使われている可能性すらある。安心して燃やせるのは薪くらいだ。

紙も厄介だ。焚き付けに新聞紙を使えばインクのせいで炎が緑色になる。以前、紙だから良いかと思い、光沢のあるカラーのチラシを大量に燃やしたら最後に灰色のベタベタネバネバの塊が残ったことがある。あれはもはや殆どが紙ではなくインクなのだろう。焚付けは杉林にでも行けば杉の葉っぱが大量に落ちているのでそれを拾って来るのが一番だ。お香の原料にもなるだけあって匂いも最高。もちろん着火性も最高。

まあ、しかし、こんな細かいことを考えている人はなかなかいないのだと思う。

罰のためでなく、改善のための取り組みを

お巡りさん曰く「野焼きをしたら黒煙が上がって遠くからもすぐにわかるから、すぐに警察がくるよ」とのことだった。毎年この辺りでも何人かは摘発されるらしい。

「田舎の人はなんでも燃やしちゃいますもんね」との僕の返答に対しては、「いやいや、最近は厳しいからそんなことはない。枯れ草は燃やしてもいいけど」とのこと。

そんなことはあるから、毎年摘発される人がいるのではないかと思うのだが。気にしない人は気にしないものだ。

ゴミを捨てるのに有料の袋を買う必要があるなら、燃やしてしまえ、という人は少なからずいる。実際、そういう現場を何度も目撃している。家電リサイクル法によって処分が有料となったテレビなどは地面に穴を掘って埋めてしまうし、廃油なんかは川に流してしまう。巨大なとんどに廃油のようなものをぶち込んでいるのには流石にたまげた。

みんなうまいこと警察のお世話にならないようにやるのだ。普段はみんなスピード超過で運転するようなものだ。飲食店が消防のチェックの時だけ避難経路を確保するようなものだ。

燃やすべきでないゴミを燃やすことや、地下や山中に不法に投棄することは決して良いことではない。しかし、取り締まりを強化したからと言ってそれがなくなるものとも思えない。特に市街地から離れたところに住んでいる人のゴミ出しが億劫なのもわからなくもない。回収場所までいちいち車で運ばなければならなかったりする。

結局はデイリーの経費は嵩んだとしても、住民のゴミ出しの手間や金銭的負担が減り、ゴミを燃やしたり不法で投棄するよりも楽な選択肢を生み出してしまった方が良いのかもしれない。なにせ、一度野焼きや不法投棄があれば、それを回復させるための金銭的コストも、環境的コストも跳ね上がってしまうからだ。

日本では個人が分別をしてゴミを出すのが一般的だが、欧米諸国ではまとめて出したゴミを作業員が分別するようである。どうせ市民はきちんと分別してくれないのだから、作業員がその手間を100%買って出た方が効率がいいというわけだ。

かといって日本人だから正確に分別ができるのか、というとそうでもない。結局は作業員が分けている。例えばペットボトルのキャップを外したり、PET素材でない似たような容器を取り分けたり。だから日本では個人も作業員も両方が分別をしていることになる。だったら欧米式の方が効率面でもコスト面でも良いだろう。

それに何ゴミで捨てていいかわからないものも、欧米ならとりあえず捨ててしまえば良いが、日本だったら捨てるのが面倒になってしまうのもわかる。大概の人は燃えるゴミか何かにそっと入れてしまったりするのかもしれないが、人によってはとりあえず火の中に入れてしまう人もいるかもしれない。特に上の世代の人たちは環境に対して頓着がない人が多いのは確かであるから。

また、田舎の農山村部などではアメリカのように各家庭の前に収集車が止まってゴミを回収していくのも視野に入れても良いと思う。目の前までくれば、流石にゴミはちゃんと捨てるのではないか。

僕が今住んでいるところも、これまで関わった古民家も、果ては各地の山小屋においてでも、すべて、ゴミを燃やした後や、不法投棄の後がある。プラスチックの塊が冷えて固まった溶岩のようになっている。かつてはそういう時代だった。だから、昔の世代の人は特に悪いとも思わずにゴミを燃やす。

どうせ自然のものだから。

確かに、全てのものは自然からできている。ナチュラルでないものはない。しかし、野生と人工の違いは常に存在する。

自然を愛する僕としては、コンクリートジャングル化される前の時代を羨んでもいたが、最近はその思いはだいぶ薄れてきた。今はむしろ、環境意識が高まってきている現在を生きていることに感謝している。

日本は残念ながらこの手の分野は欧米からはだいぶ遅れをとっているけれども、欧米がいい見本を見せてくれるものだから、日本は改善の余地ばかりで未来があるとも言える。

だからこ未来を生きるものの責務は大きい。と自分を省みている昨今である。

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百姓2.0/自給リスト(自足に限らず);野菜、米、塩、味噌、建築、トイレ、経済、国家、獣肉(拾い物)、書籍、映像、音楽 etc /自著『旅をふりかえる旅』https://amzn.to/2Wb1mNs、『下らない生き方』https://amzn.to/2ZEjgKf /
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