多重時間論〜いくつもの時間を同時に生きる

この記事は2019年の旧暦10月1日と2日にnoteにアップしたものです。

新暦10月28日 新月 旧暦10月1日

今日は新月です。新月ということは旧暦だと1日ということになります。10月の朔日(ついたち)です。10月といえば神無月という異称を持ちますが、もともと旧暦の10月を指していた言葉ですから、本当は今日から神無月です。

我が家のイチョウも色づいて来まして、銀杏をボコボコ落としています(写真)。

新暦と旧暦

神無月とは出雲大社に全国の神様が集って会議(「神議(かみはかり)」と呼ばれる民の幸福の御縁を結ぶ会議)をするため、各地は神様不在になることからそのように呼ばれますが、一方の出雲においては神在月(かみありづき)と呼ばれます。

僕は島根県に住んでいて出雲大社まで車で1時間ちょっとですが、住所は出雲国ではなくお隣石見国に位置するので、神無月と呼ぶべきなんでしょうかね。しかし隣近所に神様が大集合するかと思うと、感慨深い(?)ものがあります。

今年の出雲大社は新暦11月6日に神迎神事があり、翌日7日が神在祭と龍蛇神講大祭。11日、13日と縁結大祭ののち、13日の午後には神等去出(からさで)祭をもって神様は各地に帰られます。

12日が満月に当たりますが、だいたいお祭りは満月というのが多いのは、月明かりが明るいというのもあるでしょう。お盆といえば旧暦7月15日の満月ですし、踊りや神輿はその月明かりの下で行われていました。

出雲大社の行事はこのように旧暦にそって行われているわけです。新暦(グレゴリオ暦)が採用されたのが明治ですから、本来日本の伝統的な行事は当然旧暦において行われていました。

例えば七夕といえば今は新暦7月7日ですが、本来は旧暦7月7日だったわけですから、今年においては新暦8月7日であるべきなのです。新暦7月7日ではまだまだ梅雨真っ盛りですから天の川は期待できませんが、新暦8月7日であれば見られるかもしれません。まあ、都会の空気ではどっちみち見えないでしょうが、僕が住んでいるようなど田舎では、天気がよければ天の川が見えるのが普通です。

このように安易に旧暦から新暦に行事日程が移行されたために、その根底にある文化や季節感はこうも無残に失われてしまっています。お正月に新春というのもそうでしょう。新暦1月1日に迎春と言って梅の絵のあしらわれた年賀状をもらっても季節感はチグハグですが、旧暦1月1日は今年は新暦2月5日ですから、梅の花が咲く頃ですね。新暦の2月4日が立春でしたから、これで辻褄が合います。

ハイブリッド暦

新暦と旧暦のどちらに優劣があるというわけではなく、そもそも役割が違うものとして、双方の良いところを取り入れるのが良いと僕は考えています。現代人がリアルとSNSを同時に生きるように、新暦と旧暦の二つの時を行き来するのです。

二つの時間あるということは、二つの世界があるとも言えますから、この世はパラレルワールドです。暦に関しては、イスラム暦やチベット歴などもありますので、多重時間の多重世界です。

先に述べたように、日本の季節感に会うのは確実に旧暦です。日本の四季に合わせて改良が加えられてきた暦ですから当たり前です。新暦には太刀打ちできません。

旧暦は月の動きと連動しており、1日は新月、15日前後に満月というように、自然の営みに沿っているのも特徴です。日付が月の動きと連動するということは、潮の動きも当然一目瞭然です。

一方の新暦は一年365日でシステマティックに時を刻みますから、ビジネスや教育などの機械的な管理を要する社会においては確実に便利でしょう。世界の共通言語でもありますし。新暦は4年に一度うるう年で1日増えるだけですが、旧暦では数年に一度うるう月があって一年が13ヶ月に増えますから、管理は少し複雑になるかもしれませんね。

明治に新暦が急遽導入されたのは、うるう月によって役人の給料を1ヶ月多く払わなくてはいけないのを避けるためとも言われています。

流れる時間と循環する時間

ビジネスでは新暦を生き、自然と対峙するときは旧暦を生きる。相手がたの言語や文化を知っていることで、外国の方とより親密なコミュニケーションが取れるように、採用する暦によって世界を見るときの深度が変わります。

また、新暦と旧暦という二つの暦の中にも、まっすぐに流れる時間と、円を描いて循環する時間があると見ることもできると思います。

まっすぐに流れる時間とは、まさに歴史年表のごとくに、過去から未来へと積み重なっていく時間です。

時間と言ったらそれだけだろうと思う人も多いのかもしれません。

しかし、月の満ち欠けは毎月繰り返しますし、地球が一年かけて太陽の周囲を公転します。

景色を眺めて見ると、春に芽吹いた新芽は若草色に山を染め、夏にはその緑が深くなって行き、秋には赤く燃え上がり、冬には大地に落ち葉の絨毯を敷き詰めます。この営みが毎年毎年続きます。

柿のように隔年でいい年わるい年が繰り返すように、数年単位の周期を持っているものもあります。

これらの時間は円を描いて循環していると見ても良いのではないでしょうか。

この流れる時間と循環する時間が合わさり、様々な螺旋形が重なり合っているのです。

木々は前述のように葉の営みを循環させながら、まっすぐ流れる時間とともに大きく成長していくのです。

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新暦10月29日 旧暦10月2日 

「今年は例年より10日くらい遅い」

と、近所の人が話していましたが。29日のはずの今日がまだ19日にしかなっていないというわけでは当然ありません。

人間の暦は均等に流れるシステマティックな時間を生み出しましたが、自然の時間は常にまっすぐ均一というわけではないのです。

今とは、写真のモミジがこのような色をしている時です、と書くつもりで庭にあるモミジの写真を取っておくつもりが、忘れて日が暮れてしまいました。なので、日暮れの写真を撮りました。あとで書きますが、いつだって現在にしかいれないのです。モミジはというと、まだほとんど緑です。

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新暦における去年の今頃はもっと赤みがかっていたと思いますから、近所の人がいう通り10日くらい遅いのでしょう。去年の今頃は雑木林が綺麗に紅葉していたのを覚えています。

カレンダーが均一な時間を刻む横で、梅が咲く時、梅雨入りの時、彼岸花が咲く時、初霜が降りる時、など、自然には自然の時間が流れているのです。

栗の花が散る頃になると梅雨に入ると言われるように、自然の営みは一つのカレンダーです。植物はもちろん、虫や動物、天気などが季節の移りを知らせてくれます。

官公庁や学校では6月1日から10月1日までを夏服というように、人間のカレンダーに則って決めていますが、暑さ寒さの移りをより正確に知っているのは生態系の皆さんです。

5月の中旬から例年より暑い年もあれば、6月の中旬まで寒い年もあるでしょう。人間のカレンダーがそれを指し示すことはできませんが、その時咲いている花や飛んでいる虫を見れば、そんなことは一目瞭然かもしれません。

だから、昨年は何月の何日に何々の種を蒔いてうまくいったけど、今年は同じ日に蒔いたのにうまくいかなかった、のようなことが起きるわけです。

人間の作った新暦や旧暦などと、自然のダイナミズムによって表されている時間感覚の両方に親しんで、相互に翻訳をかけると、複数の世界が同時に流れているのを感じられてきます。

時間の流れは過去→未来?それとも未来→過去?

これまで時間が流れている、という表現を使ってきましたが、時間というものはどっちに流れているのでしょうか。

過去から未来でしょうか。

未来から過去でしょうか。

現代人の多くは前者のように、過去から未来に流れていると考えているのかなと思います。

そんなの当たり前でしょう、だって時計の針は過去から未来に向かって動いているじゃないか、と聞こえて来そうです。

しかしそれは時計というものに慣れ切ってしまっているからそう思うのかもしれません。歴史とともに文明が進歩を遂げて来たことも、過去から未来へ進むという感覚を作り出しているように思います。

しかし、過去は「過ぎ去る」、未来は「未だ来ず」と書きますから、時間とは未来から現在に向かって来て、過去へと流れさるという見方もできます。

僕は時間をこのように捉えていますが、どちらの見方を採用しても良いと思いますし、時と場合によって適切な方を選べたら尚良いのではないかと考えています。

過去から未来に流れる時間は、急いでついていかないと置いてかれるような感じがありますから、技術革新の目覚ましい昨今では、人々を不安に駆り立てるような要素もあると思います。

しかし未来から過去に時間は流れると見た途端に、あなたはあなたの今いる所で焦らず確実に取り組んで行けば良いとわかります。今を生きていれば、確実に未来が訪れるのです。

一方で、時には尻に火をつけて、時間に追われるがままに、いや、追いこすように仕事や学業などに取り組まないといけないこともありますから、そんな時は時間の流れるベクトルを未来に向けて見ても良いかもしれません。そして時計の針の動きに管理されるがままに、気合いで乗り切ってしまうのです。

結局は未来も過去も全て現在でしかない

未来だ、過去だ、と語って来ましたが、僕たちは現在以外の時制にいることはできません。

未来は現在に向かっては来ますが、それが現在になった刹那、すぐさま過去として過ぎ去ってしまいます。

ちょっと先の未来は、あっという間にちょっと前の過去になります。

未来が来たって、たどり着いた途端に現在だし、過去が過去のものとわかるのも僕たちが現在にいるからに他なりません。

すなわち、過去も未来も現在のうちに内包されているわけです。

僕の時間感覚としては、過去は学びとして現在に活かされているもので、未来とは現在(と現在としての過去=学び)が作っていくものです。

向こう一年を勉強に明け暮れるか、スポーツに熱中するか、はたまた遊び呆けるかで、数年後の未来は全く別のものになりますから、未来というのは少なからず選び取れるものであるはずです。

過去は未来を映し出す

歴史から学ぶとはよく言いますが、過去の結果とは、それより前の過去が作り出した未来の姿です(100年前の取り組みが、90年前の結果を作ったという意味)。

すなわち、歴史は過去に起きた未来の姿であり、そこを紐解くことによって、今現在がどのような未来を切り拓いていけるかの物差しになるのです。

新品の洋服と古着が目の前にあった時、古着は過去を蓄積したものと見ることもできますが、新品の洋服が未来にどのような姿になるかを写したものと見ることもできます。

このように未来の姿は現在のいたるところにあるし、振り返って見ることだってできるのです。

忘れてはいけないのは、過去を顧みて、未来を展望できるのも、僕たちが今を生きているからこそです。

過去にとらわれてクヨクヨしても起きたことは覆せませんし、未来を心配しすぎても起きてみないとわかりません。

このように過去や未来にとらわれて、現在から離れてしまっては、過去と未来からも乖離してしまいます。

なぜなら、過去を活かせるのは現在においてだけですし、現在における行為が未来を作っていくからです。

こうして見てみると、時間というものは本当に多様な見方ができるものです。

複数の時間の存在を理解してそれを同時に生きることは、複数の世界を行き来できることだと思いますし、そうすることで局面ごとに自身にとって有利な世界から物事を捉えることができると僕は思っています。

時は金なりと言いますし、1日は誰にとっても24時間と平等です。

1日の長さはかえられませんが、その捉え方を変えることで、より有益に時間を使うことができると思います。

そうすれば相対的に1日が長くなったようなものですし、その長さが行くところまで行けば、僕たちはもはや不老不死にすらなれるのかもしれません。

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