永井均氏が語る『<子ども>のための哲学』こそ、現代社会に足りていないものでは

(書評なんて偉そうなことではなく、思いついたままの読書感想文です。現代社会の問題点については永井氏の著書では取り扱われていません。)

僕はつねづね行為することと思考することには高い親和性があると思っている。手足を動かして何かをするとき、僕の思考は刺激され、全く思いもよらなかったアイディアが生まれ得るのだ。

そして思考することとはもはや抗うことだとさえ思える。現代社会は人々の思考停止によって(または、人々を思考停止させることによって)成り立っていて、だからこそ旧態依然としたシステムが暗躍し続ける土台を提供することにつながっているが、そんな既得権益が安定的地位を維持するための環境を揺るがすとしたら、思考する連中の仕業なんだと思う。

思考するということは、そうせざるを得ない問いがあるからであろうが、その問題がどのレイヤーに存在しているかは重要な問題のように感じる。問題意識の向かう先が、既存のシステムのレイヤー上にあるのか、それとも、全く新しい地平にあるのか。

前者の場合、構造そのものに欠陥があったとしても、取り扱われる問題はその表層の域を出ないだろう。自由に思考できる時、問題意識はよりディープな根本に向かうポテンシャルを持っているのではないだろうか。いや、むしろ否が応でも向かってしまうものなのではないだろうか。

現代を代表する哲学者である永井均氏の『<子ども>のための哲学』で語られている<子ども>とは、「世の中になれてしまって、わかっていないということを忘れてしまっている」『大人』と対比された、自己存在や善悪、生死、宇宙の成り立ちなど、この世界を構築する前提に目を向けてしまう人のことをさす。事実、子どもは大人の答えられない「なんで?」をあらゆる事象に向けているが、大人だから<子ども>の哲学ができないということではない。

僕にとっては行為することが<子ども>の哲学を思考せしめるところがあるのだが、それは、実際に何かを挑戦するということ、人任せにせずに何事も自分ごとにして行為するということは、ある意味では問題の本質に直面することを避けられないと言うことであると思うのだ。最初から最後まで自分で行為したら、根元の部分を避けて通ることはできない。自分でやればやるほど、改善点は常に模索されるし、気づかざるを得ないのだ。

永井氏は哲学というものは、ある問題に対する思考過程そのものであって、既存の哲学体系を学ぶことではないと書いている。ニーチェはニーチェ哲学を体系化したのではなく、ただ彼自身の中に沸き立つ問いの中で思考を働かせていっただけということだ。そして個々人の中で重要性を持ち得る問題は人それぞれだ。永井氏には永井氏の問題がある。それは僕やあなたはまた各々の問いを抱えているということだ。

そのことがわかると、他人の思想にいちゃもんをつけるなんてことはなくなろうし、多様な価値観が尊重されるようになろうと思う。自分の問いが持ち得る重大さを知る者は、他者が抱える問いが彼らにとって一大事たることを理解できるはずだろうから。

自身の問いの重要性は多くの人にとっては取るに足りない話だったりもするし、そもそも僕やあなたの思考が完璧に理解されるなんてことはあり得ない。言語が持つ意味が個々人の経験のフィルターを通すことで異なってしまう以上、僕やあなたの考えが正確に伝わらないことを嘆いたって仕方がない。

抱える問いとその重要性はそれぞれであること、そして、思考は絶対に理解されえないことを知らないことが、この社会に争いが絶えない理由の一つなのではないかとさえ思う。「世の中になれてしまって、わかっていないということを忘れてしまっている」大人たちは、自分たちの意見の正しくて一大事であることを要求し合う。自らを「知っている」と思っている人たちほどたちの悪いものはいない。彼らは他者の価値観を受け入れず、自身のそれを強要してくる。

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きっと彼らは本当の意味での哲学、永井氏の語る<子ども>の哲学が足りないのではなかろうか。もしかしたら子ども時代に、大人たちに根源的な質問をして、当然のように満足な回答が得られなかったために、そのような疑問を持つこと自体が良くないのだと、「世の中になれる」努力を無意識にしてきてしまっているからかもしれない。

その結果、多様性の中の一つであるはずだった個人の問いを捨て去り、「わかっていないということを忘れてしまっ」た人たちで構成されるシステムの中の住人になってしまったのかもしれない。システムはそのシステムなりの正しさを個人に植え付け、そこからはみ出るものを受け入れられない排他的な価値観を形成してしまう。そしてそこに衝突が生まれる。

じゃあどうしたらそんないがみ合いをなくすことができるのだろう、というところに、既存の哲学体系(思想)にただ追従するでない、自分自身の哲学を思考するということ、すなわち永井氏の語る<子ども>の哲学の実践があるのではないかと思う。

自分自身の哲学って何かと考えてみると、個々人の純粋な問いに思いを巡らすこと、すなわち、考えさせられることじゃなくて、自分から自分ごとを考えるということだと思う。簡単な話に聞こえて、そうとも言えない。残念ながらこのような純粋な思考を花開かせる土壌が用意されているとは思えない。学校教育から何から、クッキーの型に入れられるような教育ばかりではないか。だから教育にも頼れない。結局システムのための教育だから。

やはり自分から自分ごととしての問いを守り抜くしかないのだろう。自分の問いには自分で立ち向かうしかない。自分の問いを守るということは、他者の問いを尊重するということ。そうしてやっと多様性が擁護され、自分の問いをも守られる環境が整備される。

最も恐ろしいのは、その問いがシステムによって無意識に沈めれられてしまい、それによって残された漠然とした不安だけがつきまとうような状態に置かれることかもしれない。その不安さとは、自らの問いが見向きもされないままでいることであり、どうやって満たして良いかわからない不満に苛まれる。これは仏教で言うところの無明、すなわち、苦しみの原因なのかもしれない。その苦しみから脱出する方法が<子ども>の哲学という、自らの問いに正面から向き合うことから始まるのではなかろうか。


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百姓2.0/自給リスト(自足に限らず);野菜、米、塩、味噌、建築、トイレ、経済、国家、獣肉(拾い物)、書籍、映像、音楽 etc /自著『旅をふりかえる旅』https://amzn.to/2Wb1mNs、『下らない生き方』https://amzn.to/2ZEjgKf /
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