法華経の山河で暮らす〜ナチュラルライフと仏教

自宅の庭からの風景

法華経とは一体なんなのか。

それは妙法蓮華経とも呼ばれる、仏教、とりわけ大乗仏教のお経である。

その存在が近頃度々思い出すようになっていたので、以前途中まで読み進めてそのままになっていた岩波文庫版を引っ張り出して改めて最初から読み始めることにした。

それは僕が山村に腰を据え、自然に囲まれた暮らしを本格的に始めたことと無関係ではない。なぜなら法華経はこの宇宙と太陽系と惑星地球の描写で始まるからである。

お経、仏教、宗教、、、

これだけで拒否反応を示し、思考停止してしまう人がどれだけいるのだろうか。別に仏教は超越的な何かを信仰するものではないし、資本主義やらロマン主義やらポストモダニズムのようなひとつの思考体系だし、むしろよっぽど虚構と無縁のものだと思っている。

生きる以上当たり前に直面する苦しみ(四苦八苦)をやり過ごすための自然科学と言った方が理解しやすいかもしれない。政府やら企業やらをパトロンに持った研究なんかよりはるかに純粋な科学ではないだろうか。

だから僕は仏教を信仰するものとは思っていない。仏(ブッダ=目覚めた人の意)になった釈尊(釈迦)の教えを師事するということ。それを生きるということだと思っている。画家を志すものが師匠を信仰しないのと同じだ。信者になったらおしまいだろう。他にいい師匠がいたらそっちに移ったっていい。いつコペルニクス的転回が起きるとも限らないから。しかし仏と同じことを言う人はいても、その代わりは2500年たっても出て来ていない。

また、法華経と言ったら日蓮宗や創価学会(僕はどちらでもない)。

そうなってしまっている現状がいかに勿体無いことであろうか。別にそれはそれらの教団だけが悪いわけではない。社会がそれを望んだところも大いにある。政治や思想はその特色を決めつける(決めつけられる)ことで差別化、そして派閥化を歩んでしまう嫌いがある。

当然それは法華経だけに限らない。浄土三部経と言ったら浄土宗や浄土真宗、聖書と言ったらキリスト教、マルクスと言ったら共産主義、原発反対と言ったらリベラル、オーガニックと言ったら意識高い系と言う固定されたイメージは、思考を停止させ、可能性を狭める。西も東も、右も左も、そんなにくっきり分かれてないといけないのだろうか。僕はそうは思わない。

しかし社会環境によって生み出されるそれらのイメージは、無意識に人々の思考を条件付ける。「不立文字」を掲げ、仏の教えは経典ではなく実践に宿ることを説く禅から仏教に親しみ始めた僕にとっても、日蓮宗のイメージの強い法華経に触れるまでには時間がかかった。

勿体無い。こうやって僕たちは概念や言葉に支配されているのか。そのままでは本当の自由などあり得ない。

その固定概念をほぐしてくれたのが、僕にとっては、共に詩人の山尾三省と宮沢賢治である。

彼らの言葉を時に借りつつ法華経の冒頭である『序品』を、仏教を体型的に学んだわけではない僕なりの言葉で、すなわち仏教学にありがちな小難しくない文章で考察して見たいと思う。出来るだけ。

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法華経という宇宙

前述した通り、仏の教えを森羅万象の営みに重ねた壮大なオープニングで幕を開けるのだ。

ここで仏教において忘れてはいけないことを述べておくと、仏教の目指すところは苦しみからの解放にある。仏教の教義の目的は全て苦を滅することにあると言って良いのではないだろうか。一般に知られる不殺生とか小欲知足などの仏教の教えも苦しみから逃れる(やり過ごすと言った方が正確かもしれない)ためである。

苦が滅するとは、幸福であるとも言える。しかし幸福を求めることは幸福をもたらさない。それは、求めること、すなわち渇愛が苦の原因であると仏教は説くからだ。全ての現象は無常である。常ならん。変化し続ける。求めていたものを獲得して喜びを得たとしても、求めて得たものも永遠ではないし、その時得た感情も一時のものであって、すぐに消えて無くなってしまう。

すると再びその喜びを味わうために渇愛が湧き上がる。その繰り返しであって満たされることはない。だから我々は渇愛の火を消さなければならないと言うことになる。その先に幸福がやってくる。と言うか、ある。幸福を求めることをやめたときに、幸福はある。それが幸福だと気づかれることもなく。

その為の仏の教えが仏教だ。というふうに僕は考えている。言葉で言うのは簡単である。

そして法華経の冒頭ではその教えが森羅万象の中で語られる。いや、むしろ森羅万象が仏教を語っていると言った方が良い。森羅万象は仏教そのものだ。

仏教がそうであうように、森羅万象は渇愛を鎮火し苦しみから解放する方法、幸せになる方法を説いているということである。

森羅万象という自然法則

森羅万象とはこれすなわち自然法則であるといえよう。だから仏教も自然法則なのだ。

宮沢賢治のように科学者的目線で農や仏教に触れたものが、法華経に惹かれているのは当然の成り行きであるように思う。ここで科学の語る自然法則と、法華経の語る自然法則が重なってくる。

賢治は詩集『春と修羅』の有名な序文において、仏教の世界観を科学のワードによって表現することに成功している。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮沢賢治『春と修羅』序文より引用

他者の存在が私を作る。他者がいなければ私はない。他者によって私は「いかにもたしかにともりつづける」。

それは、僕たちは万物との関わりによって、「風景やみんなといっしょに」生きているということであり、自他の境のない「幽霊の複合体」である。

そんな世界に自己という実体はない。あくまでも因果によって「仮定された」「ひとつの青い照明」といったところだ。

我々の存在が行為の連続という関わりによって規定されるは(「せはしくせはしく明滅するは」)「ひかりはたもち その電燈は失われ」るがごとくであろう。

嗚呼、なんと小難しいことか。

『春と修羅』には先立った賢治の妹をテーマにした作品がいくつか収録されている。

妹と死に別れた苦しみを乗り越えようという気持ちを、この序文から感じずにはいられない。妹の存在があくまで「ひとつの青い照明」という「現象」であって、無常な存在だと理解すれば、永遠の生を望むなどは、解決できるわけもないことは明らかである。

至極、論理的であるし、一つの自然の営みである。妹は森羅万象に帰っていった。こうやって賢治は苦しみをやり過ごしたのではないだろうか。過去も未来も現在も、全ての現象は「風景やみんなといつしよに」「たしかにともりつづける」ものだからだ。

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太陽と月の仏

僕が最初に法華経に惹かれたキッカケとなったのは、山尾三省による『法華経の森を歩く』を読んでからだと思う。そこで初めて日月灯明如来(にちげつとうみょうにょらい)の存在を知った。

如来とは仏のことであるから、太陽と月の仏、太陽と月が仏ということで良いと思う。

大乗仏教は釈尊(釈迦)の以前にも仏(目覚めた人)は沢山いたということになっている。日月灯明如来もその一人だ。

法華経の序品では釈尊が弟子が揃う前で説法をしたのちに瞑想に入る。その時、

「天は曼荼羅花・摩訶曼荼羅花・曼珠沙華・摩訶曼珠沙華を雨して(ふらして)」
「普く仏の世界は六種に震動」して
「仏は眉間白毫相(みけんびゃくごうそう)より光を放ちて東方八千の世界を照ら」した。

この描写を非現実的だと取ってはいけない。大体、小説は行間を読むのが当たり前なのに、こと宗教書となると言葉尻だけを取るのはずるい。超現実的な表現でないと語り尽くせないことはあるものだ。

この例えがわかりやすいかはわからないが、仏の偉大さを素直に表現しようと思ったら、東大寺の大仏のように巨大できらびやかになってしまうものなのだ。

さて、これらの出来事を文殊菩薩に言わせれば、釈尊はこの時、「大法を説き、大法の雨を雨し(ふらし)、大法の螺を吹き、大法の鼓を撃ち、大法の義を演べ(のべ)」ようとしているのだという。大法とはこの宇宙の法則であり理である。仏教用語でいうと法(ほう)とかダルマという。

宇宙の法則が花として降り注ぎ、世界を震動させ、その隅々まで照らしだす。大自然の営みがそのまま法であると僕には取れる。

そして、これと全く同じ現象が過去にもあったのだという。

その現象を起こしたのが、日月灯明如来であった。日月灯明如来ははるかはるかの昔の仏であるという。そしてこの日月灯明如来の後にも何人も仏がいる。しかし次も、その次も、みんながみんな日月灯明如来という名前なのだという。それが2万も続く。

太陽と月の2万の周期。

これを一日の周期だとすると2万日だから55年くらいで少し短いだろうか。
月が地球を回る周期だとすると28日×2万だから50万日=約1500年だ。
地球が太陽を回る周期だとすると365日×2万だから730万日=約2万年。
太陽が銀河を回る周期だとしたら2億5000万年×2万だから5兆年ということになる。
2万の宇宙だとしたらもうわけがわからない。

これのどれが正しいのだ。いや全部正しいのではないか。あらゆる宇宙の2万の周期を象徴するのが、2万と続く日月灯明如来なのだと僕は思う。

ならば、日月灯明如来が意味するのは宇宙そのものであると言って良いだろう。太陽系、月、地球と無数の星々をも含めた森羅万象だ。

その森羅万象たる日月灯明如来が「大法の螺を吹き、大法の鼓を撃ち、大法の義を演べ(のべ」るのだ。

繰り返しになるが、自然の営みそれそのものが、仏教の教えを説いているのだ!だがら、そこに苦しみを滅する鍵があるのだと言うているのだと僕は解釈している。

サンガに暮らす・山河に暮らす

サンガとは仏教用語で僧伽、僧の集団のことである。

山河、すなわち、自然に抱かれた暮らしはもうそれだけで僧的な暮らしだ。仏の教えは森羅万象から滲み出てくる。全ての現象が教えであり、学びの対象だ。

それは都会のど真ん中であっても良い。そこにも自然は平等にある。都会では林檎が下に落ちないなんてことはない。

しかし、山河での方が自然の営みはより多様で濃密である。田舎は何もなくて退屈な場所ではない。むしろありすぎる場所だ。自然のうねりが違う。都会とちがって野生がそんなに抑え込まれていないから、ダイレクトだ。いくら人の手の入った里山だとしても、植生も、生態系も、地形の起伏もはるかに豊かである。

都会的な静けさは人々の寝しずまった時間帯のシンとした状態を意味するかもしれないが、田舎的な静けさは、虫たちの喧しくも心地よい鳴き声が鳴り響く状態である。それは人工的な音に虫たちの音色がかき消されていないことを意味する。

野性は豊かで美しく、時に危険なほどに派手だったりする。

そこから得られる学びは当然濃い。

田舎に暮らせば、皆、当たり前に自家用の野菜を作る。僕たちはそれらを食べることによって、そして、その野菜を育む、水、土、太陽、空気、微生物、昆虫など、ありとあらゆるものの助けによって生きていることを実感する。これだけで「私」と言う存在、自己が儚く溶け出していくのを感じる。私とありとあらゆるものの境界を定めることができなくなる。

そんなの野菜を作らなくても分かるというかもしれない。しかし、本当に理解しているだろうか。それはエベレストの紀行文を読んでも標高8,000メートルがどんな場所かはわからないのと同じように思う。もちろん同様の学びは野菜を作る以外の方法でも得られるものだろうが。

生命の豊かさは「死の豊かさ」でもある。動植物は自らの種の繁栄を第一に生きている。自らの繁栄のために他種を活かしもするが、殺しもする。時に他者に譲り、時に先んじる。生態系の均衡は活かし合いと殺し合いによって保たれているのだ。そして時に環境の偏りが特定の種の繁茂を許す。しかしその種は単一の種ゆえにいつか駆逐されるかもしれない。そこには無常と因果の論理がヴィヴィッドに走り回っている。

自然の中にいる時、僕はいつも安堵感を覚える。仮にそこに危険な動物がいたり、急峻な地形であったり、過酷な気象条件下であってもだ。それは自然現象がその法則を逸脱することはないからであろう。異常気象と呼ばれるものであっても、因果に則って、なるべくしてなった気象である。だから異常でも何でもない。人がそれを予測できなかったり、今までのデータと違うからと言って異常と呼んでしまうのは何と傲慢なことだろう。そもそも「観測史上」なんて古くても明治からのせいぜい150年の話にすぎない。観測地点は増えているから、「観測史上」も連発される。

異常気象はないが、人間社会は異常だらけだ。それは予測がつかないという意味である。気象や動物の行動パターンと違って読めない。お先真っ暗。政治が大きく動くかもしれない。株価が突如暴落して経済破綻するかもしれない。戦争が起きるかもしれない。

こう見ていくと、山河は多様であると同時に、シンプルであるということが分かる。一方の都市は単一で複雑というところだろうか。山河は「深い」。目の前に広がる風物が内包する世界は無限の色彩を持っている。無数の宇宙があちこちに散らばっているような感覚だ。だから僕は家から半径1kmをほとんど出ていないにも関わらず、全く飽きることがない。ソローが『歩く』で書いたような世界だ。遠く求める必要などない。

そしてそれらの無数の宇宙が互いに絡み合い、私という関係性を貫いて交差していく。宮沢賢治の『春と修羅』から再び言葉を借りてくるとすれば

「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから」

ということだろう。

「わたし」が「みんな」であって、「わたし」というものがないのなら、そもそも「苦しみ」なんてないでなないか。という、問い。を、問い続ける。答えたら答えられない。だって、「苦しみ」のようなものは感じるでしょう?

そして今日も日月灯明如来はどこかで世界を照らし、雨を降らし、風を吹かし、大地を震わし、生命を潤わす。

どうも自然界には苦労はあっても苦しみはないような気がする。

僕もそんな世界を生きて見たいと思う。いや、もう生きているのかもしれない。と、山河に暮らして思うのである。

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百姓2.0/自給リスト(自足に限らず);野菜、米、塩、味噌、建築、トイレ、経済、国家、獣肉(拾い物)、書籍、映像、音楽 etc /自著『旅をふりかえる旅』https://amzn.to/2Wb1mNs、『下らない生き方』https://amzn.to/2ZEjgKf /
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