自然(Nature)と野性(Wild)の定義を再確認する。野性を取り戻すということ。

僕たちは自然(Nature)とかナチュラル(Natural)とか、
野性(Wild、Wildness)とかワイルドな(Wild)と言う時、
それらの違いを理解し、使い分けることが出来ているでしょうか?

Pixabayより

例えば農薬や添加物など「人工的な物質」を使っていない食品を「自然食品」と呼ぶ一方、
自然が野外環境を意味するとき、「杉や檜の人工林」や「護岸工事された河川」も自然と呼ばれたり、

無農薬であったっとしても、人為的な接木によって実っているりんごが「自然な食品」と見られている一方、自然界から産出される石油から作られるナイロンやポリエステルなどの繊維は「化学繊維」なんて呼ばれます。

一方、「野性的な」と言う形容詞は粗野で荒々しい男性的イメージを連想させ、「野性の動物」には凶暴な響きが付きまといますが、「野性の森」とも言える原生林が持つ美しさはこれ以上ないと言って良いほどのものです。

「ワイルドな」と言うカタカナ語で使う際は、ある種のカッコ良さの裏に、いっそう乱暴で、荒削りで、かつ純粋で、バイクにまたがって「born to be wild」で、危険な匂いのする「ワイルドサイドを歩け」で、時に猥雑な「Wild Things」を連想させます。

「自然」と「野性」そして「不自然」の境目

次に「自然」と「野性」、そして「不自然」との境目を見てみましょう。

「不自然なお米」と言うと、それは「遺伝子組み換えのお米」のようなものでしょうか。
「野性のお米」と言うのは日本には基本的にはないでしょうが、栽培されることなく野原に自生しているお米となるでしょう。

それではその中間は「自然なお米」でしょうか?

人の手で栽培されたり、農薬を使ったり、品種改良されたりしていますが、それらは「自然なお米」なんでしょうか?人によって線引きは違うでしょうし、どうも曖昧な感じが致しませんでしょうか?

「不自然」が「自然」の仮面をかぶっている

「自然」という言葉も、「野性」という言葉も、すでに述べたような曖昧な定義のまま、しかし特に問題提起されることなく普段の生活に使われています(野性という言葉はあまり使わないかもですが)。

しかし、耳障りの良い「自然」という言葉は、使用するものにとって都合よく使われていることが多いような気がします。

実際は添加物がしっかり使われていたとしても、ナチュラル(自然な)と明記されればそれだけで体に良さそうに感じる人が多いでしょうし、大量の農薬を使用する慣行栽培のコットンで作られた洋服も、天然繊維なだけに自然な感じがしてしまいます。

自然エネルギー(再生可能エネルギー)と称しては、広大な敷地を刈り込んでソーラーパネルを設置し、河川をせき止めてはダムを建築する。そしてさらなる自然が破壊されていきます。

自然という言葉を正確に理解しないと、その「自然」はもはや「不自然」を隠すための言葉として使われかねないわけです。

「野性」もそうです。

僕にとって野性という言葉が連想させるのは、弓のように筋肉を躍動させる動物の動きや、ボロボロになりながら急流を遡るサケ、完全な静謐さを携えた原生林、星座も特定できない程に輝いた星空のようなもので、とても美しいものばかりです。

もちろんその美しさはどこか「危険」とか「儚さ」と言ったものも内包していますが、それはいつもコインの裏表であって、だからこその際立った美しさを見せてくれるものだと思っています。

そしてその美しさこそが、今の社会に失われているもののような気がしてなりません。「自然」と「野性」という言葉を明らかにすることによって、近代社会が失ったピースを見つける手がかりとなり、より良い未来というものが見えてくるのではないかと思うのです。

Sponsered Link

「自然」と「野性」の一般的定義

「自然」と「野性」の定義を辞書から引いてみたいと思います。

デジタル大辞林によると自然(ここでは名詞のみ)は以下のように記載されています。

し‐ぜん【自然】

[名]
1 山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。「自然に親しむ」「郊外には自然がまだ残っている」
2 人間を含めての天地間の万物。宇宙。「自然の営み」
3 人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態。天然。「野菜には自然の甘みがある」
4 そのものに本来備わっている性質。天性。本性。「人間の自然の欲求」
5 哲学で、
㋐他の力に依存せず、自らの内に生成・変化・消滅の原理を有するもの。
㋑精神とは区別された物質的世界。もしくは自由を原理とする本体の世界に対し、因果的必然的法則の下にある現象的世界。経験の対象となる一切の現象。

2において「人間を含めての天地間の万物」即ち「全てのもの」と定義している一方、1や3では「人間の手の加わっていない、ありのままの状態」を自然と呼んでおり、後者の定義が一般的ではないでしょうか?

しかし「人為的でないこと」が自然であるならば、「自然建築」も「自然農法」も「自然エネルギー」もちっとも自然ではないことになります。

次に大辞林 第三版より野性の定義を引いてみます。

やせい【野性】

(野生動物の)生まれたままの本能むき出しの荒っぽい性質。教育などによって変えられていない、本能のままの性質。 〔同音語の「野生」は動植物が山野に自然に成長・生育することであるが、それに対して「野性」は自然のまま、または本能のままの性質のことをいう〕

そうです、日本語では「野性」と言う性質と、「野生」と言う文字通り「山野で生育した」状態を指す言葉がありますが、この記事ではその性質たる「野性」の方を追いかけたいと思います。

話は戻って、大辞林では野性を「生まれたまま、本能のまま、自然のまま」と定義しているので、これでは野性と自然が一色担になってしまいます。しかし、どうも野性には「本能むき出しの荒っぽい」ところがあるようです。

野性の教科書、ゲイリー・スナイダーの『野性の実践(Practice of the Wild)』を参照する

「世界は「自然」であって、それは最終的に「野性」となることを避けられない。
それは「野性」は自然の過程であり、その真髄として、常に移り変わることで秩序立っているから」(『野性の実践』より拙訳)

野性は自然の真髄であると。自然は野性を内包することでその本質に到達すると、スナイダーは『野性の実践』の中で語ります。

本文中においてはこれ以降、『野性の実践』を「本書」と呼ぶことにします。

野性は自然の真髄であるにも関わらず、「自然(Nature)」という言葉に脅迫的な響きが無い一方、文明社会の視点から立ってみたとき、「野性」は洋の東西に関わらず、無法であるとか、無秩序、暴力的なものと結び付けられてしまっています。

本書で例として上がっているのは中国語の「野花」。それは野生の花を意味すると同時に、「娼婦」という意味もあるそうです。「野(Wild)」には「最下等の自然」というニュアンスを持っているのです。

近代社会を作り上げるに至った開拓の歴史は、この「野性」を駆逐するようにして成立していったとも言えます。

自然における「脅迫的で、無秩序な部分」すなわち、「支配側の人間にとって都合の悪い部分」を「野性」もしくは「野蛮」と呼び、それらを排除する正当な理由と世論を作ってきたのではないでしょうか?

その結果残されたのは「人間に都合の良い従順な自然」であって、森は切り開かれ、山は削られ、道は舗装され、先住民は追い出されていきました。そして「自然」は「不自然」として生まれ変わったのです。

日本においても独自の文化や思想を守って、体にタトゥーを入れていた琉球やアイヌ、蝦夷(エミシ)の人々はやはり中央政府にとっては野蛮や恐怖の対象でしかなったのでしょう。

スナイダーはヘンリー・ソローの「文明が耐えられないような野性をよこせ(拙訳)」という言葉に対して、「野性が耐えられるような文明」を作っていかないといけないと説きます。

何しろ現代社会は「国破れて山河あり」の世界から、「山河破れて国あり」な世界になってしまっているからです。

もう一度言います。野性は「自然の真髄」です。

「自然」「野性」そして「ウィルダネス」という言葉を改めて再定義する

自然が持つ2つの意味

『野性の実践』においても自然が持つ二つの定義が紹介されています。

一つは

「文明や人間の意図に関わらない全ての生命を含んだ物理的世界。機械や人工物、人の手の入ったものは不自然と言われる」(『野性の実践』より拙訳)

大辞林を参照したときと同様、一般的にはこの定義になるでしょうか。

二つ目の定義は

「物質的世界および、その物質と現象の集合体。それは人間の行為や意図がもたらした生産物をも含む」「物質世界で機能し、全ての現象の原因となる創造的で統制的な物理的力」(『野性の実践』より拙訳)

分かりやすく言うと(サイエンスがそう提案するように)「全てのものは自然(ナチュラル)である」と言うことになります。

大都市も、石油製品も、原子力発電も、全て自然です。どれも「自然」がもたらした産物であることに疑いはありません。

スナイダーは一つ目の定義で「自然」を使うこともありますが、基本的には二つの目の定義で「自然」を捉えていると言います。そして僕もその意見に賛成です。その方が次に述べる、「野性」という性質を捉えやすくなります。

大都市も、石油製品も、原子力発電も、全て自然です。が、どれも野性ではありません。

「野性」とは

本書ではThe Oxford English Dictionaryの野性の項目を引用していますので、それをそのまま僕の拙訳にて掲載したいと思います。

動物についてー躾られていなく、飼いならされておらず、手に負えない
植物についてー栽培されていない
土地についてー人の住まない、開墾されてない
作物についてー栽培されていない生産や収穫
社会についてー文明化されておらず、野蛮で、反政府的
個人についてー遠慮のなく、従属的でもなく、淫らで、自堕落で、だらしない
振る舞いについてー暴力的、破壊的、残酷、無法
振る舞いについてー無邪気で、自由で、自発的

Sponsered Link

やはり人間の視点から見たときに「否定的」な性質として捉えられているのが「野性」です。スナイダーはそれに異を唱えてその人間視点をひっくり返します。そうして浮かび上がってくる定義が以下のようになります。

動物についてーそれぞれの資質を頼りに自然の仕組みを生きる自由行為者
植物についてー生来の資質に則って自ら繁殖し、維持し、繁栄する
土地についてーオリジナルでそこの土地にあった動植物が手付かずのまま相互に生態系を作っており、その景観が人為的な力によって作られたものではないこと。初期の。原初の。
作物についてー野生植物の成長やそれらの果実と種子の生産における、自然の余剰と豊富さによって維持される食物供給
社会についてーその秩序が内部から成熟し、明白な法体系ではなくコンセンサスや慣習の力で維持される社会。オリジナルで恒久的な居住者が作り上げた原初の文化。文明による経済的、政治的支配に対抗する社会。その経済システムが土着の生態系と密接かつ持続的に関係している社会。
個人についてー大都市や近隣の交易所のスタンダードに染まらず、土着の文化、スタイル、そしてエチケットに従うもの。萎縮することなく、自給的で、独立独歩。
振る舞いについてー抑圧や監禁、搾取に対し頑として抵抗すること。型破りであっぱれ。
振る舞いについてー無邪気で、自由で、自発的で、型にはまってない。表現が多彩で、肉体的で、性的にオープンで、エクスタティック

この二つ目の定義が連想させるのは道教における「タオ(Dao, Tao)」や仏教における「法(Dharma)」であるとスナイダーは語ります。ここでこの二つの言葉を掘り下げると紙面を圧迫してしまうので避けますが、要は、僕たち人間、およびこの世界の本質的姿がこの「Wildの肯定的な定義」に現れていると言って良いと思います。

ワイルドな場所「ウィルダネス(wilderness)」を解析する

僕は原生自然という意味で捉えるのが好きですが、日本語だと荒地と訳されがちな単語「Wilderness」。ジョー・クラカワーの『Into The Wild』が『荒野へ』と邦訳されてしまっておりますし。

再び、『野生と実践』に引用されているウィルダネスの定義を拙訳にてここに掲載してみます。

1.土着の動植物を有す広範囲に及ぶ野生の土地。鬱蒼としたジャングル、熱帯雨林、北極圏や森林限界など。
2.不毛の土地。農業や牧場として使われない、または使えない土地。
3 海や空
4.危険で困難極まりない土地。リスクを伴い、自らの技術のみが頼りで、助けを頼ることが出来ない
5.天国と相対する世界
6.豊潤な場所 ミルトンの『失楽園』にあるように 「a wildernesse of sweets(甘美であふれた)」

やはりどうしても「混沌、エロス、知られざるもの、刺青を入れた民族の世界、エクスタティックで、悪魔的なもののいる場所」といったニュアンスから抜け出せていませんが、Wildernessを野性の立場から見てみると、ミルトンが失楽園で使ったような野性の豊かさが見えてきます。

ひしめき合うように川を遡上するサーモン。岩場にはりつく貝の群生。カマキリの卵からは無数の子供達が湧き出てくるし、山の土をひっくり返すと、慣行農法の畑では想像もできないほどの虫たちがひしめき合っている。もちろん見えない微生物たちの数も比べ物になりません。

いづれにせよ、ウィルダネス、すなわち野性の土地には人の力や想像の及ばない大きな力が潜んでいるのがわかります。

スナイダーの言葉を借りますと、

「wildernessは野生のポテンシャルが最大限に表現されている場所で、生命、非生命の多様性が彼らの秩序に則って繁栄している場所。生物学において、それはワイルドシステム呼ばれる。エコシステムが完璧に機能している時、そのシステムを構成する全てのメンバーがその集団として存在意義を発揮している。ワイルドネス(野性)とは、ホールネス(Wholeness、完全性)そのものだ」(『野性の実践』より拙訳)

もともとは私たち人間もその「ホールネス」という「生態系が一個のものとして完全に機能していた状態の世界」に暮らしていました。

ほんの数世紀前、アメリカの全てが野性であった頃は、ウィルダネスが意味するのは森林限界や砂漠などのシビアな環境の土地だけではありませんでした。

そこにクーガーがいて、グリズリーがいて、バイソンがいて、川にはサーモンで溢れかえって、そして人がいる。どこかに集中することもなく、薄く広く人々はちらばっていました。

人の痕跡のない土地を探す方が難しいほどで、厳しくて困難な土地も知られていましたし、名前がつけられていました。

そうです、人々はもともと野性の土地、ウィルダネスに暮らして、生態系との調和を保って暮らしていたのです。

しかし現在の人の暮らしはどうでしょう。たとえば東京のような町は今までの定義に即すると、「自然」ではありますが、「野性」ではありません。

自然の摂理に則って作られているのは当然のことですが、人と一部の生物(蚊やハエやネズミ)と人為的に植えられた街路樹があるかくらいで、動植物の生息域としてはとても限定的です。

それまで土地を分け合って暮らしていた他の動植物たちは、人が荒野と呼ぶ「人にとって不便な場所」に追いやられるなどして、数を減らし、多くの種は絶滅を余儀なくされました。

私たちが現在生きている世界は限りなく「野性」からかけ離れることによって繁栄を許されてきたとも言えますが、その結果はどうでしょう。

人々は争い合い、人種や身分によって差別をし、山河大地は汚染され、そこから享受される空気や水、食料は脅かされることとなりました。

この状態は本当に繁栄した社会と呼べるものでしょうか?人々が遠ざけてきた野性の側に、次の時代の繁栄のヒントがあるのではないでしょうか?

周囲の野性。私たちは野性から逃れられない。

どんなに僕たちが血眼になって野性を排除しようとしても、それは不可能です。

湿った建物の陰には苔が生育するし、
放っておいた食べ物にはカビが生え、
菌類たちに分解されて腐っていきます。

空中を彷徨う納豆菌は大豆を発見するし、
牛乳を発酵させるには少しのヨーグルトで十分です。

どんなに草刈りをして、どんなに除草剤を散布しても、
やっぱり駐車場には雑草が芽を出すのを止められません。

CWニコル氏が管理・再生している「アファンの森」にはもともといなかった動植物が多く生息するようになったといいますし、東日本大震災の津波のあと、準絶滅危惧種となっていたミズアオイが咲き乱れました。

野性はいつもすぐそばにあって、再び繁栄するのを虎視眈々と待っているのです。

そもそもが人間だって野性を秘めている

僕たちの体から野性の反応を切り離すことはできません。

驚いたら心臓の鼓動は早くなるし、切り立った岩壁が立ちはだかったら目眩におそわれるはずです。

心肺機能は自律神経によって勝手に動いており、呼吸は意識的に止めることができても、心臓はとまりません。

喜怒哀楽といった感情や思考、想念、記憶など、多層に絡み合った意識構造は、まさに野性の領域、ウィルダネスといってよいでしょう。そのウィルダネスから僕たちの言語は飛び出してくるということになります。

僕は「考える」という時、出来るだけ「頭」ではなく、「腹(丹田)」で考えるように心がけていますが、その腹の内部たる腸には、1000兆個の腸内細菌が住み着いており、人間を構成する全細胞の60兆個をはるかに超えています。

そしてそれら腸内細菌が消化吸収の多くを司り、免疫機能を支え、幸せ物質たるドーパミンやセロトニンの前駆体を分泌します。

このように、自力でコントロールできていると思い込んでいる人間の体には、僕たちの力の及ばない、野性の世界を内包しており、その野性の力によって生かされているといっても過言では無いと思います。

人間の内側にある野性を外に広げていく

結局のところ、人間の核となる部分を支えているのは本来僕たちが持っている「野性」であると言って良いのではないでしょうか?

ならば、人間以外の動植物や、山河草木の核となる部分も「野性」に支えられているはずです。

その昔、里山の木々を使い果たした結果、複雑に張り巡らされた根っこを失った山は水を蓄えられなくなり河川は氾濫、その氾濫を止めるために、護岸を整備し、堤防を作り、ダムを作ってきました。しかし、直線的になった川は豪雨時の激流の勢いを止められず、水量がダムの許容量を超えた時、より強大な洪水を引き起こします。

材木利用のために植林された杉や檜の針葉樹は保水力がないばかりか、根が深くまで伸びておらず、土砂災害が起きるのを今か今かと待っています。

ダムによってせき止められた川にはヘドロがたまり、下流には栄養が届かず、海の生態系をも狂わしては、海から故郷に遡上するサケたちの行く手を阻み、循環は絶たれてしまっています。アラスカでは、クマが食べ残したサケの栄養が豊かな森を作っているそうです。きっとそれは世界中で当たり前だったことなのでしょう。

このように、一つ「野性」の連鎖を断ち切ってしまうと、それは次から次へと力を失い、やがてしっぺ返しとして人間に猛威を振るってきます。

ならば、その連鎖を一つ一つ繋げていけば、人間にとっても住み良い世界になるのではないでしょうか?

少しづつ野性「的」にしていく

この記事の前半において、「自然農法」ですらも人為的であるから「自然」ではないと書きましたが、だからと言って僕は自然農法を否定しているわけではありません。むしろ農作物の栽培方法としてはとても好ましいものと思っています。

自然農法とは福岡正信氏によって提唱された「不耕起(耕さない)、無肥料、無農薬、無除草」による栽培方法です。

作物を栽培するという行為自体が、当然人為的ですし、それがそれなりの規模の、単一栽培となれば尚一層人為的であることを否めませんが、慣行農法や、有機肥料を使った有機栽培(オーガニック栽培)と比べると、圧倒的に人の手は加わっておらず、「より野性的」であると言えます。

人の手を加えることを限りなく最小限にして、土壌と作物が本来持っている力、すなわち野性を最大限発揮させる。

その結果、土壌の栄養素を食い尽くし、さらには土壌や水質、大気までを汚染する従来型の農法から、豊かな動植物とのつながりを取り戻し、循環して生成する農法が生み出されました。いや、生み出されたというのは正しくありません。古来から連綿と続いてきた生態系に寄り添った農法が取り戻されたと言ったほうが良いでしょう。

方法論を少しづつ野性的にしていくということ、野性が発揮できるように人為的要素を見直すということ、その結果、人の力だけでできる以上の結果を生み出せるということ。

世界の人口は爆発的に増加し、それに比例するように天然資源が枯渇する中、僕たちはこのまま同じ生活を続けることが不可能なんてことは頭では理解しているはずです。

野性を取り戻すという行為。
「野性が耐えられるような文明」を作るということ。

時にそれは江戸時代、もっというと縄文時代に帰るような姿でやって来るかもしれませんし、全く反対に誰もが嫌悪感を示すほどにアバンギャルドで未来的な姿をしているかもしれません。

どちらにしても野性は「自然の真髄」であり、
自然の一部たる僕たち人間は野性を必要としていると思うのです。

Sponsered Link

Spread the love
百姓2.0/自給リスト(自足に限らず);野菜、米、塩、味噌、建築、トイレ、経済、国家、獣肉(拾い物)、書籍、映像、音楽 etc /自著『旅をふりかえる旅』https://amzn.to/2Wb1mNs、『下らない生き方』https://amzn.to/2ZEjgKf /
投稿を作成しました 117

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

関連する投稿

検索語を上に入力し、 Enter キーを押して検索します。キャンセルするには ESC を押してください。

トップに戻る