持続可能性論再考 ー 小屋を廃材と間伐材で人力のみで建ててみて ー コンポストトイレ小屋作りあとがき

下水道と接続せず、汚物を大地へ戻して堆肥化する「コンポストトイレ」用の小屋を作ってから半年近くが経過した。やっと当時の総括を書く気になったのである。

完成直後

小屋のその後はというと、しっかり閉めていなかったドアが今夏の台風で吹き飛ばされた以外は思いの外トラブルがなくて驚いている。針から上はホゾ接ぎで乗っかっているだけなのに幾度もの突風でも持ちこたえたし、焼杉を葺いた以外には屋根に防水処理はしていないのに特に屋根裏に問題は起きていないようである。

僕はこの夏からこの小屋のある広島から、島根の山村にフィールドを移したので、このコンポストトイレ小屋は他の用途で使われることになるだろう。

さて、僕はこのトイレ小屋作りを紹介したこれまでの記事タイトルに「持続可能な方法で作る」と豪語したのだが、結局人力でチマチマ作っただけではないかという疑問が残る。石油も電気も使わないのだって(間伐材を運ぶのに一度だけ軽トラを使ったけど)ただの自己満足に過ぎず、一体何が持続可能なのかと。機械の力を借りてとっとと小屋を建てて、余った時間を他の有益な事業に当てた方がよかったのではないかと。

この記事ではこの度の小屋の建築を振りかえりつつ、そもそも持続可能とはなんなのかについて考えてみたいと思う。

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持続可能性とは

三省堂の大辞林の定義を借りてくると

生物資源(特に森林や水産資源)の長期的に維持可能な利用条件を満たすこと。広義には、自然資源消費や環境汚染が適正に管理され、経済活動や福祉の水準が長期的に維持可能なことをいう。サステイナビリティー。

「長期的に維持可能」という言葉に柔軟性と妥協を感じる。そこでオックスフォード辞典の「sustainability」の項を引くと以下のようにある。

Avoidance of the depletion of natural resources in order to maintain an ecological balance.

=生態系のバランスを維持するために天然資源の枯渇を防ぐこと

大辞林の定義では資源を如何に利用するかに焦点が置かれているが、オックスフォードの方では生態系の保存をその目的としたニュアンスがある。僕としては後者の定義で持続可能性を理解してきた。

天然資源そのものが生態系バランスの一部をなすものであるから、生態系のバランスを限りなく保つことができる経済活動やライフスタイルが「持続可能」なものなのだろう。しかし、そもそも生態系バランスを維持しながら成立してきた文明は存在したのだろうかという疑問が湧いてくる

文明と持続可能性

18世紀後半に起こった産業革命は資本家と労働者を生み出し、その労働力を駆使して急速に発展した工業が石油や石炭による莫大な動力源と相まって今までにない生産性を獲得した。

18世紀初頭の世界の人口は10億人に達したところだったが、1927年には20億人を突破し、現在では70億人を超えるまで急速に人口が拡大している。国連の調査によると2055年には100億人を超えるとも言われている。産業革命が生み出した大型の機械を使った単一栽培による農業と、化学肥料などの発明がもたらした食料供給力のなせる技ではあるが、それによって失ったものは大きい。

農地や畜産のために森林が切り拓かれるのはもちろん、増え続ける人口を支えるために大量の天然資源が採取される。便利さはさらなる便利さへの渇望を生み出し、生態系からの搾取はとどまるところを知らない。

限られた資源はいつまで僕たちの文明を支えることができるのだろうか。これ以上発展し続ける必要があるのか。いやいや便利を放棄するなんて無理なのか。そもそも現在の水準を保とうとすることすら傲慢ではないのか。ならば過去の暮らしに逆戻りすべきなのか。

では産業革命以前はどうなのか。

1万年前に起きた農業革命は世の中の動植物の秩序体系を大きく変えた。サピエンス全史によると、小麦の栽培植物化、ヤギの家畜化を皮切りに、紀元前3500年までには現在に見られる動植物の栽培化と家畜化のほとんどが完成していたという。

では農耕以前の狩猟採集時代はどうなのか。

これもサピエンス全史によると、ホモ・サピエンスがその住処を拡大するに合わせて大型生物の大量絶滅が起きているという。

「ニュージーランドにおける最初のサピエンスの移住者であるマオリ人は、800年ほど前に、この島々にやって来た。その後200年のうちに、地元の大型動物相の大半は、全鳥類種の六割とともに絶滅した。」

これと同じことが世界中のマンモスの絶滅にも当てはまる。妊娠期間が長く子供をたくさん産む訳でもない大型動物が認知革命を起こした団結する人間の狩猟対象になってしまったこと、それに加えて焼畑による動植物の生息圏の破壊、気候変動などが合わさってこの大量絶滅に繋がったと推察されている。

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持続可能性と発展は相容れないのか

なるほど、ホモ・サピエンスの歴史がそのまま生態系の破壊の歴史であると言っても言い過ぎではなさそうだ。確かに産業革命以降の変化は特に著しいし、この10年の変わりようはそれ以前の生活を想像できないほどである。スマートフォンがなかった10年前を想像すると隔世の感すらある。

しかし約1万2千年前の農業革命やそれ以前の約7万年前の認知革命による変化のスピードはその当時の世界における脅威だったのは、僕たちによく似た人間は240万年前から地球上で暮らしていたことからよくわかる。そして認知革命が起きるまでは他の動物と対して違いのない一個の霊長類だったということである。(サピエンス全史より)

こうやって過去の人類史を見てみると「持続可能性」とは程遠いような感がある。なるほど、大辞林が定義するように「生物資源(特に森林や水産資源)の長期的に維持可能な利用条件を満たすこと」の「長期的」を抜き取ってしまうと説明がつかないのも理解できる。「持続可能性」なんて鼻から詭弁なのかもしれない。そして今日もこの言葉は軽々しく使われる。

こうなってくるとそれが経済システムだろうが生態系システムだろうが、現行のままで維持できると思う方が不可能だということがわかる。そもそも複雑に入り組んだ生態系システムを人間の知恵と創意工夫で改善できると思う方が傲慢と言えるかもしれない。一切万物は諸行無常、常住ではありえないと釈迦が言っているではないか。

だからと言って生態系のことなんか無視して人間本位に生きるのが正解だと言っているのではない。生態系が崩壊すれば、僕たちの生活まで脅かされることは明らかだ。空気、水、食料などの生命の根源が成り立たなくなる。現に野菜の栄養価は化学肥料などの影響でものによっては4分の1に低下してしまっている。

「自主的な人類絶滅運動」という団体が存在するように人類がいることが環境にとって害悪だと考えるのも納得できる。僕はジョン・ミューアが言った「人類とクマとの間に戦争が起きようものなら、私はクマの側に共感するだろう」という言葉に頷いてしまうのを禁じ得ない。だから人類を絶滅させれば良い。それは種としての絶滅でなく、現在の人類の価値観の絶滅である。マイルドな言い方をすれば最適化である。

持続可能性とテクノロジー

今まで幾度となく繰り返してきたように、僕たちの社会を現行のものに最適化していくしかない。過去に戻ったって持続可能でないのならなおさらである。間違ったら正せば良い。正すしかない。戻らなくても書き換えることはできるはずだ。

テクノロジーは進化を続け、情報のコモディティ化はさらなる加速を見せるが、それによって社会の環境意識が高まっていることは光明であると言える。それなしでは知り得なかった情報にいち早くアクセスできるのだ。例えば打ち上げられた鯨の腹のなかから大量のプラスチックが出てきたとか。だから間違いを知りやすくなり、それを正す機会に恵まれているのが現代であると言える。

僕個人としてもコンクリートが敷き詰める前の自然豊かな世界を憧れていたこともあったが、過去を生きることはやめにした。むしろ自然環境を無視しないことが当たり前の時代に生まれたのを幸運と思うようになっている。

そしてテクノロジーの進化は人々を物質の世界から引き離すことに成功してきている。本も音楽も映画もデジタル化した。コンピュータさえあればどこにいても仕事ができるし、世界中と繋がることができる。それに311も物を持つことの儚さに気づかせることを助長した。

そして特に大きいと僕が思う変化はやはりスマートフォンで、世界がテレビなどの画面の中で起きているのでなく、その世界をスマートフォンを操る人間に引き戻すことに成功したことにあろうと思う。僕にとってはiphoneのOSはiOSなのではなく、それを操作する僕らである。iphoneそれそのものが僕らのアプリだ。そのアプリを駆使してリアルを生きる。人によってはスマートフォンの画面の中が世界になっているかもしれないが、それでは役割がテレビと変わらない。主体を僕らに引き戻さなくてはならない。

そうしてテクノロジーは人々を野に繰り出させる。デバイスも小さくなったし、物にも縛られなくなった。ミニマリストが増えてきた。かつての貴族階級ほどのギラギラした豪華絢爛さが現在には存在しないように、これからはより質素に欲のないところに幸せが存在するのかもしれない。それはつまらないものだろうか。そんなことはないのは日本に伝統的に染み付いている禅的美意識を思い出せばわかる通り、美しい。侘び寂びが再び脚光を浴びる日も近いかもしれない。

人間の幸福と持続可能性

そして僕は欲の少ないところ、足るを知っているところに幸福があると思っている。

産業革命は生産性と効率を大いに高めたが、それで僕たちは幸せになったのか。僕たちの趣味や余暇は効率とは無縁のところにないか。

農業革命は甘くて美味しい米や小麦を一年中食べることができるようにしたが、それで僕たちは幸せになったのか。農業スケジュールに縛られて、米麦に支配されているのではないか。繁栄したのは人間ではなくて作物や家畜ではないのか。

認知革命は僕たちを欲望の海に投げ込んだ。欲望を満たせば幸せか。いや、また別の欲望に追われるだけだ。しかしこの禁断の果実だけは引き返せない。これば人間が背負ったカルマだろう。しかし克服はできると仏教が教えてくれている。

求めても求めても得られない。得たと思っても、すぐまた何かを求めてしまう。この欲望が苦しみである。だから欲望から離れなくてはならない。その先に苦しみから離れた世界、すなわち幸福がつかみ取れるかもしれない。今までどんなに追い求めても、社会が発展しても手に入れることができなかった幸福が。

人間の目覚ましい発展を助けるのも欲望。その発展による人間以外からの搾取も、生態系の破壊も、資源を枯渇も、すなわち持続可能な社会から離れる原因となっているのも欲望。ならば欲望を克服しなければ持続可能性を獲得することはできなのではないだろうか。

僕がここで提言したいのは欲望の克服は人に幸福をもたらすと同時に、生態系にその持続可能性を取り戻させる強力な一手となりうるということである。

大地からその資源を無闇に奪うことなく、無為に消費することなく、無駄にうち捨てることなく、逆にその大地に僕たちからのギフトを与えていくような社会。

そして欲望のないところに初めて最適な課題、すなわち人類の行先が見つかるのではないかと僕は思っている。欲望なきところによる思考と行為の市場原理は人種や国籍や階級はもちろん種の違いを超えた与え合いを生み出す可能性があると思う。欲望なき自然が余すところなくその豊潤を僕たちに分け与えてくれているように、僕たちも与えずにはいられなくなる。

自分ごとを世界ごとにする。そしてそれは欲を克服した先にあると思うのである。

おっと、そろそろ5000字近くなってきたので、続きは次回とすることにしよう。

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百姓2.0/自給リスト(自足に限らず);野菜、米、塩、味噌、建築、トイレ、経済、国家、獣肉(拾い物)、書籍、映像、音楽 etc /自著『旅をふりかえる旅』https://amzn.to/2Wb1mNs、『下らない生き方』https://amzn.to/2ZEjgKf /
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