持続可能性論再考(Part2) ー 小屋を廃材と間伐材で人力のみで建ててみて ー コンポストトイレ小屋作りあとがき

持続可能性は欲の無いところにしかあり得ず、欲の無いところには人間の幸福だってあるというのが前回の記事で述べたことである。

持続可能性のような環境保護論を語るとき、どうしても人間にとっての幸福を放棄しなくてはいけなくなると恐る人もいるかもしれないが、そうあるべきでは無いと僕は思う。人間だって生態系の一部として幸福であるべきだし、それをないがしろにしてはいけない。持続可能性と人間の幸福が両立するなんて素晴らしいではないか。

しかし欲望を満たすことを幸福だと思っていたらそれは違う。反対に真の幸福は欲望から離れることにある。幸福は快楽とはちがう。砂糖や酒タバコなどの中毒性のあるもので得られるものでも無い。かつて興った文明が人々を幸せにしたわけでは無いのは前回の記事でも語った。

では幸福はどこにあるのか。すなわち欲の無いところとはなんだろうか。この問いを抱え続けることに持続可能性への希望が現成するのだというのが僕の考えるところである。

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荘子のはねつるべの話

さて、僕がこのトイレ小屋を作るに当たって電気もガソリンも使わずに、手道具のみを頼りとしたのには荘司の外篇にある「はねつるべ」の話に少なからず共感するところがあったからである

ある老人が井戸に降りてかめに水を汲んでは這い上がり、畑に水をやっている。それを見た孔子の弟子の子貢が、なんて労力ばかり多くて効率が悪いのだろうかと思い老人に言う。「もっと効率のいい方法がありますよ」と。それが「はねつるべ」である。

しかし老人はそれを断った。彼が師から教わったことによると、機械を持つと人は企み事をもち、そこから得してやろうと考える。得しようと思えば生まれながらの純粋な心は失われ、定まることはない。そんな心ではこの世界を正しく理解することはできない。だから私はそんな機械のことは知っているけど恥ずかしくって使わないのだと。

機械などの便利な道具は欲望を産む。そしてその欲望は人を真実から遠ざけるのだと。まさに今僕も痛感しているが、電動工具などを使い出すと、とてもじゃないけど戻れない。もっと言うと、小屋をホゾのみで組み立てていた段階の純粋な気持ちと楽しさは、後半に釘を使い始めたあたりから崩れ始めた。なんでも釘留めでいいじゃないかと。楽だし。こうやって目的が「楽な方法をとる」ことに傾いていく。

それが行くところまで行くと、現代のような効率化が追及された分業的世界が出来上がる。欲に従えば行くところまで行ってしまうのだ。もはや自分のやっている仕事が本質的に何をやっているのかすらわからない人だっているだろう。意味のわからない仕事に意義を見出すのは難しいし、とてもじゃないけれどそれが幸せだとは思えない。

もっというとそれが本当に効率的かすらも疑問が残る。

ソローの電車より早く歩く話

ヘンリー・ソローの代表作『森の生活』の中に以下のような話が出てくる

歩く以上に早く旅をすることはできない。距離は30マイルとして運賃は90セント。これはだいたい稼ぐのに一日かかる金額だ。今から歩き出しても僕は夜までには着くし、このペースで1週間歩き通したことがあるよ。君はその間に電車賃を稼いで明日か、運が良ければ今晩には着くかもね。運良く仕事が見つかればだけど。それに君はほとんどの時間を旅じゃなくてここで働いていることになる。

という話。

この本の出版が1854年だから、1日の賃金あたりの電車の移動可能距離は現在とは比べられないのは当然である。しかし、テクノロジーを駆使すれば必ずしも効率が良いわけでは無いのは今も同じである。例えば東京の中心部においては、電車よりも車よりも自転車の方が早いなんてことが多い。

そもそも得られる経験の密度が違う。同じ行程を車に揺られていくのと、徒歩で踏破するのでは後者からの方が学びの量が多い。1か月でも歩き旅をすれば、半年くらいの経験ができると僕は思っている。すると他の人より5カ月分先に進んだことになる。早さや効率は費やした時間だけの問題では無いと僕は思っている。

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もう一つ忘れてはならないのは機械などの道具に頼るとき、道具そのものに蓄積された時間があるということだ。例えばチェーンソーなら、作るのにかかった時間、鉄などの材料が出来上がり、それを採取する時間、もっと言えば発明までに費やした時間などがある。ノコギリであればそれらの費やされた時間は圧倒的に少ない。その時間は環境負荷と呼ぶこともできる。

こういった時間の諸々を考えると、常に最も早い方法は人力なのではと思いもする。少なくとも僕は道具を選ぶときも、その内包された時間の少ないものを出来るだけ選ぶようにしている。自分一人の人生の効率ばかり高めたって、社会や世界単位で見たらよっぽど効率が悪かったりするものである。便利に溺れることは、真実から遠ざかるのみならず、必ずしも効率が良いとも言い切れない。

効率のための分業化の落とし穴

もう一つ効率化の話をして見たい。先にも触れたが、現在は自らの仕事が何をやっているのかすらわからないほど分業化してしまってはいないだろうか。

挙げ句の果てには都会の人たちが食べているものは遠く離れた田舎か、海の向こうからきているものしかなく、その食べ物がどのように出来ているかはまるで知る由がない。

人は安い方を選び、見た目の綺麗な方を選ぶ。すると生産者は利益を上げるために効率化をはかり、虫食いなどのないようにと農薬に頼る。そうやって土の生態系が脅かされ、前回の記事でも述べた通り野菜の栄養価がかつての1/4にまで落ちていたりする。おまけに生産者の健康も脅かされる。もちろん川も汚染し、海まで注ぐ。

また、普通、野菜というのは個体ごとに形が違うのだ。そうすると箱詰めがかさばり流通に支障が出るので、同じような形に成長するF1種という品種改良された野菜がスーパーに並ぶ。形に個性のある原種の野菜と違って味も栄養も落ちる。F1種の多くは雄性不稔という一代限りの種無しの種なので、これが現在の妊娠率の低下に繋がっていると警鐘を鳴らす人もいる。

しかしこういった問題に目を向ける人は少ない。それでも安くて、見た目が良い方を選ぶ。問題としては認識していたとしても、だれかが解決するだろうと考える。このように当事者意識の生まれないことこそ分業の恐ろしさにあると言える。課題があるのは知ってますけど、私のせいではありませんよと。

しかし実際は野菜にまつわるこのような状況を決定づけているのは、無関心な大衆の消費動向であったりする。問題から目を背けることは、自らが責任を負いたくないという一つの欲だといってもいい。そして分業がそれを助長する。

ナチスのホロコーストを支えたのは、過度の分業化にあると言われている。細分化された役割のみを果たしている場合、何か問題が起きたとしても、自分のせいとは言い切れない。そう言って自分を守ることができる。責任を転嫁することができる。悪いのはシステムだ。このようにして責めに追われることなく大量虐殺が可能となった。

もし目の前に問題が発生し、誰かがやるからいいだろうと思ったら、それはシステムの歯車の一つであることを認めたようなものかもしれない。痴漢にあった女性を助けるのは私じゃない、私はこの後時間通りに会社に行かなくてはならない。とかね。

でもそれで幸せになるのはシステムそのものであって、僕たち人間ではないのではないだろうか。少なくとも痴漢にあった人と、痴漢を見て見ぬ振りした人が幸せとなるとは思えない。

システムへの依存から独立するということ

こうやって欲と文明について見てみると、利便性からも、効率からも、そしてシステムからも独立していることが幸福をもたらす社会構造を構築する鍵のように感じる。

便利だからと道具に巻かれず、システムの巨大な力にも巻かれず、自分で自分のことを決めていくインデペンデントさを備えていること。それは自らが扱っているものが、どのように機能しているかを知っているということでもある。

何もわからずに道具やシステムに頼っていたら、それらが突如目の前からなくなってしまったとき、今までの生活が脆くも崩れ落ちてしまう。しかしそれらの仕組みを知っていれば、それを代替する他の方法に置き換えることができるだろう。

例えば機械が壊れたら先に進めなくなるようでは機械に依存しているということになる。やるべきことがわかっていれば他の道具でどうにかなったりする。もちろん機械を直せることも大事だ。修理屋に頼むということは、システムに依存しているということになる。先ほどの野菜の問題だって、自分で野菜を作ってみれば自ずと気づいてくるものである。

今まで他者に依存してきた欲から解放されて、一個の個人として考えてみると、いかにその欲の小さく収まるかがわかる。釈迦が言うところの「犀の角のようにただ独り歩め」というところだろう。

足し算から引き算の思考へ

牧畜のために餌となる牧草を育てて、それでお金を稼げなければ、自分たちの食べ物が買えないなんてことがあり得る。家畜たちの食べ物はあるのに。だったら最初から自分の食べ物を作れば良いのではないか。

残念ながら現代社会はこの牧畜の例え以上に複雑怪奇で、忍者屋敷のようになっている。見取り図もなければ、施工者ももういない。そしてその屋敷に問題が発生しているが、なかなかその本質にたどり着けない。我が家がそんな感じだ。解決策は、何かをプラスして補強することではなく、取り外して問題の本質を取り除くことにある。まさに我が家である。

何かを足すということは、現状起きていることを完全に理解できていないと問題をさらに複雑にする可能性を孕む。そもそも現状の完全な把握ができると思っていたら傲慢すぎるし、それでも足したいのなら欲望に溺れ過ぎている。過去に執着することもやめ、引き算をしてみると、あっという間に問題の本質がわかったりするものだ。

僕は飲み過ぎていたコーヒーを一日一杯を制限とした途端に劇的に体調がよくなった。体調がすぐれない時は、健康なものを追加するのではなく、何かを食べない方がいい。

持続可能性の問題だってこの忍者屋敷のような複雑さによって何が何だかわからなくなっているのだと思う。どんなに環境問題を憂いても、ありとあらゆる「知らないこと」が生態系を今も破壊し続けている。僕はこのトイレ小屋を作るまで、世界が砂不足に陥っていることを知らなかった。砂はコンクリートの原料だからと言われれば確かにそうなのであるが。砂でさえ問題なら、問題でないものなどないのかもしれない。だから引き算してみるのだ。

こうやって余計なものをそぎ落として、老廃物をデトックスしきった先の、純粋たる一個の個人として二本足で立った時に、すなわち、自分も周囲の環境も含めた課題を曇りなく見れた時に、自分ごととしての欲望を離れ、自分以外のことのために行為できるようになるのではないだろうか。しかしそれは自分をないがしろにすることではない。何しろ欲から離れた純粋な行為こそ、他者にやらされるでなく、自ずからでなくてはできないからである。「わがまま」ではなく、「そのまま」とも言える。

これまで人類が持続不可能な文明を形成してきたこと、そしてその文明は決して幸福とは相いれなかったことを考えると、その両方を解決する可能性のある欲望からの解放に一縷の望みを賭けても良いと思うのである。僕は釈迦を信頼しているが、その彼が人々が欲から離れられるように老いて死ぬまで諸国を行脚したのだ。

欲望からの解放だと大げさすぎるから、気楽に言って「欲少なく」くらいが良いかもしれない。そして仏教が教えてくれるように、欲から自由になれば、苦しみから逃れられる。持続可能性というのはこの先にあるのであろうと僕は思う。

キーワードは、欲少なく、物事をシンプルにし、自分ごととして行為する。だと思う。

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百姓2.0/自給リスト(自足に限らず);野菜、米、塩、味噌、建築、トイレ、経済、国家、獣肉(拾い物)、書籍、映像、音楽 etc /自著『旅をふりかえる旅』https://amzn.to/2Wb1mNs、『下らない生き方』https://amzn.to/2ZEjgKf /
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