森達也氏のオウム真理教ドキュメンタリー「A」「A2」「A3」を観て読んで考える生死と善悪

最近、アジアンドキュメンタリーズで森達也氏がオウム真理教の信者をドキュメントした「A」と「A2」を観てからというもの(そのために月額見放題に登録した)、僕の中でオウムはマイブームとなっており、森達也氏が自身のnoteで麻原裁判と絡めた氏の新しい視点を語った「A3」を無料公開しているのを発見しては、引き込まれるように読み終えてしまった。

オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた時、僕はまだ小学校低学年だったから詳しくは覚えていない。その後の僕もマスメディアにとって良い顧客ではなかったから裁判の報道もチラ見する程度だった。少なくとも「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がオウムには当てはまってないなとは感じていた。むしろその言葉が詭弁だったことが明るみに出たと言った方が正しいかもしれない。もはや司法にまである種の市井の感情論が波及していることが、「A3」でも語られている。

人を殺すことを肯定するわけでは勿論ないが、ちょっと善悪について再考してもいいんじゃないかと思う。

オウム真理教の麻原彰晃ほか一部の信者は確かに人を沢山殺めたが、「A3」にあるように、司法が機能不全に陥っていたことは森氏の指摘の通りではないかと思う。麻原氏の明らかな精神異常は放置され、まともな精神鑑定が施されないまま、訴訟能力だけは押し付けられる。そこに推定無罪の原則はなく、有罪ありき、死刑ありき。その為には司法の秩序すら捻じ曲げられるが、メディアによって悪の権化と祭り上げられ、大衆に憎まれる麻原氏にはまともな司法が提供される方がおかしいと言わんばかりだ。

殺しの良し悪し

「A」か「A2」かだっただろうか、ある信者が、なぜ戦争で人を殺すのは賞賛され得るのに的な趣旨の発言をされていたと思う。

麻原彰晃は人を殺したから悪いとするなら、
戦争で人を殺すことは悪くないのだろうか。

戦争は国家から命令されてるから良いのだろうか。
しかし国家から命令され、アウシュビッツで大量に人を殺したアイヒマンは死刑となった(しかもイスラエルで)。
それはナチスドイツが敗戦国だからで、勝者であれば殺人は肯定されるのだろうか。

ナチスは危険な存在で、人々を危険に晒していたから彼らを殺すことは良いのか。
そうだ、将来人殺しをするとわかっている人がいたら殺してしまえばいいのだ。それで殺しを最小化できる。
いや、だったら麻原氏が同じ論理を持ち出して、救済の名の下に人を殺すことが悪いと言えるのか。まるでアメリカが世界の警察としてやってきたことと同じじゃないか。
国家がやるのと、個人や個別の団体がやるのを一緒にしてはいけない!
果たしてそうなのか。

国家は死刑の裁きによって人を殺す。
しかし個人が裁きと称して人を殺すと裁かれる。

やはり国がやるから良いということなのか。しかし中国が政治活動家を死刑に処するのを西側諸国は批判したりするじゃないか。
結局、その国の秩序を守る行為ならどんなことでも、死刑という殺人(と僕は思っている)も肯定されるのか。中国の行為は西側にとっての世界の秩序を乱すから批判されるのか。
結局誰がどの視点で殺しの良し悪しを判断するかに尽きるんじゃないか。

死刑という殺人と書いたが、死刑の方が個人間の殺人より恐ろしいと思えなくもない。
殺人当事者はそれが偏っているものであるにしても、第一次情報として人を殺しているが、司法は全て他人から聞いた話だけで人を殺すのだ。
殺人者は自己の責任において人を殺すが、司法は制度の責任において人を殺す。その意味ではオウムも制度の責任において人を殺したのかもしれない。まるでアイヒマン。まるで戦争。悪気がない。正当性があるかどうかなんて恣意的だし、いくらでも操作可能だ。それでも殺す。

メディアイメージ

世論だって簡単に操作される。今に始まった事ではないが、メディアの歪曲や警察の横暴がオウムにのしかかっていたことを「A」や「A2」は見事に映像化した。「A3」でも指摘されているように、法廷での麻原氏の表情を、「ニコニコ」と書くか「ニヤニヤ」と書くかで全く印象が違う。メディアによって都合のいい(儲かる)表現が採用されるだけならまだしも、もはや現実を歪めるような報道が電波を駆け巡る。逮捕は大々的に報じられても、不起訴は概して盛り上がらない。オウムに限らずそんなものかもしれないが、メディアリテラシーを備えて注意してニュースに触れていたとしても、ぬるぬると人のイメージを歪めていくのがメディアの恐ろしさではある。

オウムが殺人に手を染めるまえから、そもそもが新興宗教というだけで歪曲したイメージを形成されてきたことは想像に固くないし、麻原氏が選挙やメディアに出始めてそれは加速し、サリン事件とオウムのつながりが明るみになったところでその歪みは爆発的にねじ曲がったことは容易に想像がつく。

麻原氏にとってはそんな偏見や社会の抑圧中に生きることが当たり前であったかもしれない。小学校時代から盲学校に学び、いずれ完全に目が見えなくなる事を運命づけられ、認定はされていないものの水俣病の影響を受けているかもしれないカルマを背負っての人生を生きた者にとって、そもそもメインストリームが信用に値するものだと考えるほうが不自然ではないか。そこに、前述したメディアの不誠実が覆いかぶさる。

多くの人が今、テレビの情報を信頼できなくなっているように、もはや僕にとっては日本のニュースそのものが信用に値しないと思えるように、いや、それ以上に麻原氏はメディアを信頼していなかったはずだ。それはそうだ、メディアに歪まされる当事者だからだ。そして現在も多くの人が日本や世界の行く末を憂いているように、彼もそうだったのだろう。オウムが事件に手を染めていく頃から、側近たちの情報もあって、陰謀論的な社会の見方をを濃厚にしていったようだが、マスメディアがあてにならず、自らの立場が曲解とともに報道されると、メインストリームから正否を疑われるような情報を信じたくなるものなのかもしれない。メインストリームが信用ならないんだから、そのメインストリームが疑うものは、信用に値すると考えるのは自然ではないか。

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正直のところ、僕はその目的においては麻原氏に共感する。日本赤軍などにも共感する。手段が暴力であったことについては僕の考えと全く相容れないが、少なくともそういう思考回路が存在するから戦争というものがあるのだろう。そしてその暴力が既存のシステムに及ばなければテロリストとなり、覆せばヒーローとなる。明治維新の志士達や、キューバ革命のカストロとゲバラのように。

宗教的生命感と生死

キリスト教のように人間とその他生物との命の価値を決定的に分けることは、いつだって未熟な人間の知性にとっては重要な倫理観だったのかもしれない。

仏教においては一切衆生悉有仏性、全ての生命が仏性を備えているというように、生命の間における命の格差が限りなく希薄になっている。あらゆる生命や現象との縁起によって僕たちの命が成り立っている以上、すなわち、私はあなたやその他一切に生かされている以上、命の価値に優劣を見いだすことの方が難しい。僕は他者に助けられて生きているし、植物や動物の命を頂いて生きている。食べているもの、着ているもの、身の回りにあるもので、はるか海の向こうからやってきたもものも珍しくない。それは異国の労働によって成り立っている。何もかもがお陰様だ。

目の前のあなたも、地球の裏側の誰かさんも、同じように尊い。

はずなのだし、世間的にだって同意してくれるだろうが、結局は建前に思える。

なぜなら、日本で起きた殺人は大きな関心を引き起こしても、紛争地帯で大勢の血が流されていることに関しては、多くの人がさほど関心を寄せない。他人事だ。場合によっては日本の政治スタンスが、外交が、ビジネスが、世界の誰かを苦しめることになっていたとしても、あなたの生活が間接的にでも人を殺したりしたとしても、人々は今の便利な生活を改めようとはしない。

間接的に遠くの誰かの命を奪うのと、
直接的に近くの誰かの命を奪うのと、

命の価値が一緒であれば、同様に罪であろうはずなのに、問題になるのは後者だけだ。その後者とは例えば地下鉄サリン事件だ。言っておくが、僕はサリン事件を肯定するわけではない。ただ、僕を含めた沈黙する善人達の無知によって苦しめられる見えない人々がいる現状にも同等に肯定できないのだ。むしろサリン事件をやり玉にあげればあげるほどに、大衆による間接殺人から注意をそらしているようにすら思えるのだ。

なんであの殺しが良くて、
この殺しがダメなんだ

それは法律で決まっているからだ。

こんな子供騙しみたいな理由を述べられて納得する方が僕としてはどうかしている。
それは法律が許せばいくらでも人を殺せるということを容認しているのと同じじゃないかと思えるのだ。

もし仮に、サリン事件が起きていなかったら、社会は悪い方向に進み、より多くの人がなんらかの理由で死んでいたのだとしたら、あなたはサリン事件を肯定できるだろうか。オウムが掲げる救済思想がサリン事件の実行犯達にこのような考えを起こさせなかったら、実行に移せただろうか。戦争だって、多くの犠牲を覚悟の上でよりよい(都合の良い)社会を求めて行われるのでしょう。兵隊達もこのような考えがなかったら、見知らぬ人を殺せないでしょう。

仏教における不殺生戒

それが動物だろうが植物だろうが、殺して食べなくては生きられない運命であり、土地を使うにもその地の生態系を駆逐するのを避けられない僕たちにとって、不殺生戒とはどう考えても不可能な戒律である。自分では殺しをせずスーパーで肉を買ってきたって、実質的にはあなたが殺したようなものだ。だから不殺生戒を守ることは絶対に不可能だ。

僕の考えでは、不可能だからこそこの戒律を掲げる必要があって、殺さなくては生きていけない生命の苦しみや悲しみを直視するためにあるのではないかと思っている。多くの人がそうであるように特に何も考えずに日々生命を食べるのと、ダメと言われながらも食べないと死んでしまうから殺すのでは、似て非なるものがあると思う。日常の殺しから逃げずにいるということは、分け隔てのない命の尊さから目をそらさないことであると思うし、自らの明滅する生死の営みに気づきを持ち続けることだと思うのだ。

オウム真理教の起こした数々の事件を見ていると、この解釈に加えて、本来横一線である命の価値ゆえに、遠くのだれかを間接的に殺すのも近くのだれかを直接的に殺すのも大した違いがないゆえに、日々生きるために殺している生命と不特定多数の市民の生命の優劣がないゆえに、戦争などのように正当化され得る殺しが実際にあるゆえに、「だから私はあいつを殺しても対して悪くない」という論理に待ったをかける役割が不殺生戒にはあるのではないかと気がついた。

イスラム教やキリスト教の原理主義者がテロ行為に及ぶように、日本の伝統仏教教団の一部が先の大戦に肯定的な見解を示していたように、宗教は時に殺しを肯定し、後押しする。もしかしたら目の前の動物を殺して食べないと死んでしまうような切迫さでの肯定かもしれないが、肯定したことに変わりはない。

戦争を起こせば、より良い社会が手に入るかもしれないが、殺さない。
目の前の十人を殺せば、どこかの百人が救われるかもしれないが、殺さない。
現実として生き物を殺して暮らしているかもしれないが、殺さない。

結局のところ、矛盾する。でも、殺さない。

少なくとも、同族だけは殺さない。

そもそも、食物連鎖の輪を外れた以上、人類がのうのうと暮らしている方が生態系にとってはマイナスかもしれない。だったら、動物を殺すより、人間を殺す方が罪は浅いのかもしれない。殺生して食べて生き延びても人間は地球にとって害悪でしかないのだから、餓死して死んだほうが良いのかもしれない。それでも生きる。そして殺さない。

人間が地球に及ぼした破壊を改善できるのは、人間だけかもしれない。人間にはその使命がある。そんな希望を持ちつつも、ただの傲慢に思えてしまう悲しみを抱えながら、それでも生きる。そして殺さない。

考えてどうにかなるものでもないし、全く論理的でもないのが倫理とか道徳というものなのだろう。それでも生きて、殺さない。それに賭ける。問い続ける。そのために不殺生戒があるような気がする。

もはや殺しは善悪で語れるものでもないし、
正当化も否定もできるものではないのだろう。

別に司法が解決できる話でもないし、
考えたって納得できるものでもない。

だから問い続ける。命の営みに直視し続ける。

その限りにおいて、そこに殺しは生まれないように僕には思える。

言い換えると、その問いが不在であった時、殺しは突然あなたに憑依する。

もしかしたらあなたが地下鉄サリン事件んお実行犯だったとしても不思議ではない。

だから問い続けるのだ。

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百姓2.0/自給リスト(自足に限らず);野菜、米、塩、味噌、建築、トイレ、経済、国家、獣肉(拾い物)、書籍、映像、音楽 etc /自著『旅をふりかえる旅』https://amzn.to/2Wb1mNs、『下らない生き方』https://amzn.to/2ZEjgKf /
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